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2008年11月の31件の記事

良心を貫く強さ

「良心こそ、われわれの持っている唯一の買収のきかないものである。」フィールディング 「断片」

ヘンリー・フィールディング(1707年4月22日 - 1754年10月8日)は、18世紀イギリスの劇作家、小説家。

先日、郵便局の人が私服で我が家に訪れた。何故その方が来られたのか、見当が付かなかったのだが、よくよく話を聞いてみると、僕が窓口である代金の振込みをした際、キャッシュカードを受け取るのを忘れたのだそうだ。それで、すぐに追いかけたが既に姿が見えず、何度か電話を掛けてくれたそうだがそれも繋がらないため、休日にも関わらず持ってきて下さったのだ。お陰で一日とても気持ちよく過ごすことができた。その方の行動に計算がない事が分かったからだ。もちろん僕がクレーマーである可能性は否定できないものだっただろうが、とにかく誠意を感じたのだ。

良心という話でもう一点、裁判員制度が平成21年5月21日から始まります。これは一定の刑事裁判において、国民から事件ごとに選ばれた裁判員が裁判官とともに審理に参加する日本の司法・裁判制度をいい、衆議院議員の選挙権のある人の中から、翌年度の裁判員候補予定者を抽選で選びます。このとき呼出状には、出頭すべき日時、場所、呼出しに応じないときは過料に処せられることがある旨その他最高裁判所規則で定める事項が記載されており、単に「仕事の都合」とか、「家庭の事情で」という理由では辞退することができません。

ただ、我々一般人が本当に自分の良心を貫けるかというと、なかなか難しいものがあります。というのも、罪を犯したとはいえ自分の判断によって、一人の人生を大きく変えてしまう責任を負ってしまう心理的負担に耐えることができる人間がどれ程いるのか、と考えると甚だ疑問だからです。裁判官や検察官は、目的意識を持って法曹界に飛び込んでいる時点で、その覚悟もできているだろうが、そうでない人間からすると、自分の事だけでなく、家族や関係者に何か害の及ぶ事はないのか、被告人から変に逆恨みされる事はないかなど、どうしても気になってしまうのである。

しかし、従来の裁判制度の下では、しばしば一般的な感覚から外れた、いうなれば被告人の人権保護や更正に対して重点の置かれた判決が下されている例がしばしばあり、我々には理解しにくい場合がある。それを解消し、被害者の方々にも納得のいく判決を導き出す為には、法律では割り切れない常識や慣習など、情状面に配慮した評議・評決がなされる事が理想である。その為には、我々ひとりひとりが勇気を持って、良心を曲げることなく毅然とした心で裁判に臨む必要があると思います。

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市立病院が破綻する時代

「医術は三つの要素から成る、疾病と患者と医師と。医師は医術のしもべなり。患者は医師ともに疾病と闘わねばならず。」ヒポクラテス 「流行病」

ヒポクラテス(紀元前460年 - 紀元前377年)は古代ギリシアの医者。原始的な医学から迷信や呪術を切り離し、科学的な医学を発展させた。

大阪府松原市の市立松原病院が閉鎖する。建物や医療機器の老朽化に加え、平成16年から必修となった医師の新臨床研修制度の影響で医師が不足し、患者離れが加速。慢性的な経営難に陥っている為、市長は同病院を今月28日に来年3月末限りで閉院する方針を正式に表明した。

先日も、大阪府阪南市立病院では今年10月の市長選で当選した福山敏博市長の「見直し」発言をきっかけに8人の医師が辞表提出し、存続の危機に陥っている。同市は昨年6月にも同様の事件が起きたばかり。

最近、医療機関の経営難という話をよく耳にする。インターネットの普及や、病院版ミシュランのような本が出版されるようになって、評判のいい病院、腕のいい医師のいる病院に患者が集中するようになった為だ。もちろん診療報酬の改定というのも原因の一つではあるが、医療の世界においても二極化が進んでいるようである。

もう一つ忘れてならないのは、新人医師が研修先を自由に選べる「新臨床研修制度」の存在。大学病院の医局の約8割が人手不足などを理由に地域の医療機関への医師派遣を中止・削減。その結果、地域の医療機関の6割以上が診療制限や診療科の閉鎖に追い込まれていった。

人手不足による過酷な労働を強いられている医師が、医療過誤訴訟に怯えなければならない現実も、医師不足に拍車を掛ける原因となっている。特に産科医不足が深刻で、このような状態では国が掲げる少子化対策も画餅に等しい。

確かに一歩間違えれば、生命を脅かす問題にも繋がりかねない医療という問題について、少しでも良い病院、少しでも腕のいい医師を、という気持ちは分からなくはない。折角授かった胎児を手術ミスによって失った親からすれば、その執刀医及び病院の責任を問いたくなるのも致し方なしとも思う。さすがにそれまでをも自己責任とはさすがに言えない。

だが、人間は万能ではない。医師だって生身の人間である。睡眠もろくに取れない状態で、神経を磨り減らすようなデリケートな手術に臨む。そんな中、常に100%の実力が発揮できるかというとそうではない。かと言って決して手を抜いている訳ではなく、一所懸命に取り組んでいるはずなのだ。

それでも、医療は格段の進歩を遂げ、日本人ならば2007年のデータで男性79.19歳、女性85.99歳もの平均寿命になった。人間50年と言っていた頃と比べれば、男性で1.6倍、女性なら1.7倍にも延びているのだ。これからは、もう少し寛容な心で医師と向き合ってみたいと思います。綺麗事に過ぎるでしょうか。

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感謝と報恩の心

「信実と誠実なくしては、礼儀は茶番であり芝居である」新渡戸稲造

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、1862年9月1日(文久2年8月3日) - 1933年10月15日)は、農学者、教育者。

ビジネスの世界はギブ&テイクで成り立っていることは、説明不要の厳然たる事実である。物やサービスを買うには当然のことながら金が要る。だが、世の中には厚かましい人が増えたのか、ギリギリまで安く、できればタダで物を手に入れたり、サービスを受けたいと考える人が非常に多くなっているように思うのだ。

しかも値切る対象が手数料や報酬だったりすると、仕事をする側から言えば、正直その仕事に熱がこもらない。それはいけない事だと頭では分かっているのだが、人間同士のやりとりである以上無意識にそうなってしまう事もあるのは否定しきれないところだ。つまり、自分ができないから、代わりに何かをしてもらう。そのお礼としての手数料や報酬であるのにも関わらず、それを値切るというのは、僕にはちょっと考えにくい発想なのである。

お金を払っている側からすれば、客なんだからやってもらって当たり前、もっとサービスしてくれと、その要求はどんどんエスカレートしていくのだろうが、ただ考えなければいけないのは、安売りのその先には、回りまわって自分の収入の減少が待っているという事なのである。今の日本は主に中国をはじめとするアジア諸国に生産拠点を移すことによって、国際競争力を付けてきたわけだが、ここにきてその品質の低さや、安全性に対するコンプライアンスの欠如が決定的になってきた。

その最たる理由は、極論かも知れないが消費者の物作りやサービスに対しての敬意が不足してきている事が原因だと思う。確かに大量生産・大量消費社会になると、作り手側の顔が見えにくくなり、それに対して思いを馳せる事をしにくいのは事実である。また、作り手側も、流れ作業的になり、消費者が見えにくくなる。

だが、すべては人間同士の営み。何かを貰えばお礼をする。何かやってもらえば、こちらもそれに応える。ごく基本的な事だが、金銭が介在すると心情的にドライになるのだろうか、途端に相手も喜怒哀楽のある人間である事を忘れてしまっているかのようだ。

この間、仲間達とフリーマーケットを開いた。今回で二度目となるそのフリーマーケットが一度目と決定的に異なるのは、非営利団体が出店している事を前面に押し出した事だ。するとどうであろう、明らかに消費者の購買行動に変化が見られた。簡単にいうと、あまり値切らないのである。なぜか?

非営利活動≧値切る消費者≧営利活動、という力関係が働くのだ。つまり、非営利活動という善行をしている相手に対して、値切り交渉をする事は何か後ろめたい気持ちになるのである。そうでない相手には値切るであろう人であってもだ。もちろん、その向こう側に非営利団体から助けられている“誰か”を見ているのではあるが。だが可笑しな話だ、考えても見れば、誰が売っていようと同じものなのである。

人間は心のどこかで、何か善行をしたいと思っている。だが、その対象となる相手がいない、若しくはいても何をすれば良いのか分からないのだ。だから、それを代わりにやってくれている相手に対して、敬意を払い、お金を払うのである。だが、世の中には純然たる善や悪などそれ程存在しないものだ。

どんな会社や人であれ、何かしらの役には立っている。そうでないなら、一瞬で消え失せてしまうだろう。自分の仕事が社会のために何の役に立っているのか、分からない人は多い。仕事にやり甲斐がないと感じている人も多いだろう。だが、皆誰かのために少しずつ役に立っているのだ。そういう意味で我々は他者に対してもっと敬意ある態度で臨まねばならない。それは回りまわって自分に返ってくる事でもあるのだから。

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単純ではない正義

「真の勇気というものは、極端な臆病と向うみずの中間にいる。」セルバンテス 「ドン・キホーテ」

ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ(Miguel de Cervantes Saavedra, 1547年9月29日 - 1616年4月23日)は、スペインの作家

先日とあるテレビ番組に、ミートホープの元幹部が実名で出演し、当時の色々な真相やその時の心境などを赤裸々に話していた。

ちなみに、ミートホープとは1976年創業の北海道所在の食肉の加工と販売会社であり、最盛期は道内の食品加工卸業界売上第1位であった会社である。2007年6月20日に牛肉ミンチの品質表示偽装事件を起こした。社長が不正競争防止法違反(虚偽表示)と詐欺の罪で懲役4年の実刑判決を受けた事は記憶に新しい。

話を元幹部に戻す。同氏は、以前勤めていた会社を定年退職した後、社長に請われるようにしてミートホープに入社する訳であるが、ある時従業員から内部的に食品偽装が行われている事を聞かされた。入社当時に自分自身も社長から食肉倉庫へ案内された際、肉から腐臭のようなものが漂っているのを感じ、薄々は何か悪い事をやっているのではないか?とは思っていたようだ。

そこで、元幹部は社長にそれとなく忠告するが、ワンマン社長で聞く耳をもたない。自身は業界において素人であるし、そこまで根拠立てて社長を説得する程の知識も持ち合わせていなかったようである。

それならばと、同氏は2006年春に農林水産省北海道農政事務所に不正挽肉の現物を持参して調査を依頼するのだが、まったく取り合ってくれない。この時点での元幹部は、わが身可愛さもあり、会社を潰すことなく何とか行政指導だけで、社長が行いを悔い改めてくれる事を願っていたようだ。

だが、農政事務所が動かない事で、ついには警察に内部告発するしか術はなくなってしまう。そうなれば、自分は元よりその当時いた約100人の従業員を路頭に迷わせる事になってしまう。もちろん、その家族にも相当の負担を強いることになる事は明白である。それは同氏をして苦渋の決断だったに違いない。

浅薄で無責任なコメンテーターは「社会正義」という大なたを振るって、元幹部を口撃するが、正義というものは言ほど単純なものではない。奇妙な理屈と感じるかも知れないが、何の罪もない従業員やその家族にとっては、内部告発する事が悪である場合も往々にしてあるのだ。

そのお陰で元幹部は、親戚やご近所から総スカンを喰らい、連日のマスコミ取材から逃れるように妻も出て行ってしまった。戦う相手が大きくなれば当然色々な手段を講じてくる為、身の危険も付き纏う。それ以後の就職もままならない。いつ終結するか分からない孤独な戦いを何年も続けなければならないのだ。

内部告発というものは、それ程本人にとってリスクの高いものなのである。負ければ犬死にする事だってあり得る。そうなれば我々は未だに偽装された食品を知らずに食べ続けていた筈だ。無関係な人間が無責任に正義を語れる程生易しいものでは決して無い。その孤独な勇者のお陰で我々の食の安全が少し守られたとは言えないだろうか。

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人間関係には正しい距離がある

「嫌いな人が居たら、好きになる所まで離れればいいのよ。」よしもとばなな「ハチ公の最後の恋人」より

よしもと ばなな(1964年7月24日 - )は、日本の小説家。代表作に『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』『TUGUMI』など

人間同士はあまり近付きすぎない方がうまくいくという事が結構ある。例えば、親子関係である。子供の行動が気になるのは仕方ない事と思う。だが、子供であっても小学校の高学年くらいになると、自我が確立されてくる。親には見せたくない顔や、秘密があるものなのである。それを、子供の気持ちを無視してその心にヅカヅカと土足で踏み込むような真似をすると、その子供は心を閉ざしてしまう。

夫婦の間でもまた適度な距離がある。元々は全く違う環境で育ってきた他人なのであるから、その価値観や行動様式、趣味、嗜好など違って当たり前で、それを無理やり合わせようとしたり、または相手にそれを求めたりすればうまくいかなくなって当然である。一緒に長く居過ぎると自分にとって望ましくない相手の行動が、だんだん目に付くようになってくる。そうなれば、別に見過ごせばいいような事も言ってしまいたくなるものだ。

では、それを解決するにはどうすればいいか?
その相手と自分が心地いいと思う距離まで離れる事である。それは物理的な距離もあれば、会う頻度という事もある。これを心理学の世界では「単純接触効果」といいます。これは接触回数が多ければ、それに比例して好意を抱くという心理現象の事ですが、反対に接触を減らせば、相手に対しての好意(ここでは、執着と言い換えます)も減っていくという効果を狙うものです。

親子なら、可能であれば団欒をする場所とプライベートを確保できる場所を分ける。夫婦であれば、お互い違う趣味や、友人と過ごす時間を設ける。会えば喧嘩ばかりという恋人同士であれば、会う頻度を減らせばよい。ともかく相手への過剰な執着や、身勝手な期待を止めることをお勧めしたい。その為には、まず自分というものをしっかりと確立する事。そうでないと、その不足分を補う為の他者の存在が必要になる。もちろん人間は完璧ではないから、補い合って生きているのであるが、それも程度問題である。

「やまあらしのジレンマ」という絵本がある。やまあらしにはトゲがあるため、寒いからと言って、お互いが近付き過ぎると傷付けあってしまう。かと言って、離れると寒い。だから、寒くもなく、相手を傷付けもしない程よい距離まで近付いて暖めあったという内容の寓話だ。あくまでも、物語の中の話ではあるが、ここにはより良い人間関係を築くための色々な教えがあると思う。

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幼児期における父性の欠如

「人柄や能力は、子供のころの体験が大事。好奇心や冒険心を育てることが、豊かな人間を作るのだ。」井深 大

井深大(いぶか まさる、1908年4月11日 - 1997年12月19日)は、日本の実業家。盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人。生前の盟友であった本田技研工業の本田宗一郎と並び称される戦後日本を代表する起業家として世界的にも有名である。

元厚生事務次官連続殺傷事件、で警視庁に逮捕された小泉毅容疑者(46)の犯行動機がペットを失ったショック状態を指す“ペットロス(愛玩動物喪失)”であるとの報道を聞いて、違和感を覚えた人が少なからずいるだろうと思います。

容疑者の父親によると拾ってきた野良犬が、誰彼構わず吠え立てるので、近所迷惑になると思い、仕方なく保健所に引き取りに来てもらったのだそうだ。その父親をして、「息子はそんな事を覚えちょったんですか?」というのだから、私たちが容易に理解できるはずもない。

僕は、それを聞いて彼の中で幼児退行現象が起きているのではないかと考えました。つまり自分自身ではどうしても解決できない苦悩や葛藤、強いストレスがあって、精神的に追い詰められ、それが行き場を失ったときに起こる自己防衛本能の事です。昔、知り合いにその症状を発症した人がいて、思い出したのですが、仮にそうだとしても今回のような事件を起こす動機となりえるかというと、その答えとしては弱い気がします。

ただ、小泉容疑者が精神的に大人になりきれないまま、歳を重ねていった事だけは事実のようです。自宅アパート隣であった建築工事の音を巡り、施行業者幹部の住所を割り出して押しかけ、大声を上げるなどの嫌がらせをしたり、深夜に部屋をドスドス歩き回ったり、外廊下でシャドーボクシングをするなど騒がしく、苦情が絶えなかった。ということからも至って利己主義的な幼稚な人格が浮かび上がります。

幼児性を残したまま成人する人間にはある共通するパターンがあるようで、それは家庭における父性の欠如と言えます。つまり、父親が本来教えるべき社会性や厳しさというものを教えずに甘やかしてしまうケース。歳をとってから息子を授かった父親に多い行動です。あとは、そもそも父親がいないケース。母親は体力的な面もあり、昔の父親にあった「煙たくて、おっかない」という存在にどうしてもなりえない。よって、子供はある程度自分のわがままに振舞えてしまう。

このように成人して社会に出てしまった人間は、今まで自分が育ってきた環境と、実社会との乖離に苦悩することとなります。それまでは、自分の思い通りになっていたものが、急にできなくなる訳ですから当然です。精神的に未熟な人間が、その望ましからざる環境から逃げる為に、ぽかぽかした陽だまりのような幼児期を懐かしみ、その思い出の中に自分の居場所を求めていってしまうのは精神構造として当然の帰結かも知れません。

親も自分の子供の育て方を今一度見直してみる必要がありそうです。愛情があればこそ、厳しく突き放すことも子供の為には大事なことなのかも知れません。

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麻生首相の発言の軽さについて

「間違いや失敗をしたことのない者だけは信用してはならない。そのような者は、無難なこと、安全なこと、つまらないことにしか手をつけない。人は優れているほど多くの間違いをおかす。優れているほど新しいことを行うからである。」P.F.ドラッカー

ピーター・ファーディナンド・ドラッカー(1909年11月19日-2005年11月11日)はオーストリア生まれの経営学者・社会学者。「現代経営学」、あるいは「マネジメント」の発明者と呼ばれる。

麻生首相の発言がとにかく軽い。よく歯に衣を着せぬ発言とか、毒舌などと評される麻生氏ではあるが、聞いているとそういった類のものではなく、あまり自分の発言の影響を考えずに、その場の思いつきで話してる印象なのだ。

昔、米プロバスケットボール界のスーパースター、マイケル・ジョーダンがその跳躍力と滞空時間の長さから“エアージョーダン”とあだ名された。今は日本のプロテニスプレーヤー錦織圭選手がストロークの際、外国人との体格差をカバーする為にジャンプしながら打つ姿を評して“エアーケイ”と呼ばれている。となると、差し詰め麻生氏の場合は“エアーソウ”と言ったところか。

ただ、個人的な感想を述べさせてもらうと、僕自身は麻生氏は見ていて飽きないし、面白いのだ。次にどんな発言が飛び出すか、どんな読み間違いをするか、そう思いながら聞いてみると、独特のべらんめぇ口調すらもなぜか耳に心地いい。型にハマったつまらない人間より、失言してすぐに謝ったり、脈絡のいまいち不明な内容の話をしたりと人間味に溢れている気がして、僕は嫌いなタイプではない。

経歴も、吉田茂元首相の孫であったり、麻生グループの一つ麻生セメントの若き社長として、ブラジルのサンパウロに住んでいた時期があったり、1976年のモントリオールオリンピックにクレー射撃の日本代表選手として出場していたりと、意外性もある。なにより、漫画や秋葉原のオタク文化など、サブカルチャーが好きだったり、某BBSサイトを意識してか、麻生内閣メルマガのタイトルに「太郎ちゃんねる」と名付けてたりするあたり、今までの首相とは違う“何か”を感じさせると思うのは僕だけでしょうか。そういえば昔ちょいワルおやじの代名詞である雑誌LEONに出ていた事もありましたね。

しかし、発言にはもう少し気を付けた方がいいと思う。例えば、衆議院選挙に初出馬した1979年には、壇上から支援者の人々に対して「下々の皆さん」と言ったり、米の値段についての話題になった時「7万8000円と1万6000円はどちらが高いか。アルツハイマーの人でもわかる」と言ったり、「自分が病院を経営しているから言うわけじゃないけれど、大変ですよ。はっきり言って社会的常識がかなり欠落している人が多い。責任はおたくらの話ではないですか。」と発言し、その後謝罪したりとキリがない。

それを聞いていつも思うのは、麻生氏の発言の軽さに対して呆れる以上に、同じ与党の自民党や公明党議員が、その失言や誤読の揚げ足を取って、批判ないし嘲笑するかのごとく発言をしている事だ。次の衆院選で小沢一郎氏率いる民主党に勝てるのは麻生さんしかいない、とさんざん持ち上げておきながら、陰では馬鹿にしたように皆で笑い者にする。

やれるなら自分で首相をやってみろと言いたい。下っ端がトップを批判したり、訳知り顔に評論するのは簡単だ。だが、実際に自分でやってみると失敗するのが怖くてトーンダウンしてしまい、今までの威勢の良さはどこへ行ったのかと思う輩が殆どだ。自分が選んだ人間をそのように扱う事は、選んだ自分達をも批判し、嘲笑していることと同義である事を彼らは自覚しなければならない。それが選んだ人間の責任というものだと思います。

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因果応報について考える

「騙される人よりも、騙す人のほうが、数十倍苦しいさ。地獄に堕ちるのだからね。」太宰治「かすかな声」より

太宰 治(だざい おさむ、明治42年(1909年)6月19日 - 昭和23年(1948年)6月13日)は、小説家。『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『斜陽』『人間失格』など。

今日、仕事上の知人と因果応報についての話題になった。その方は、ある人間から詐欺に掛けられ、何千万円も騙し取られそうになったのだが、色々なタイミングが好都合に重なって、結局は騙し取られる事なく難局を乗り切った。

だが、他の人は同一人物から同様の詐欺に掛けられ、実際に騙し取られた人もいれば、なんとか係争して助かった人もいる。しかしその裁判費用だけで結局何百万円と費消してしまった。それだけでなく、判決の日を迎えるまでには相当の日数を費やしており、その精神的苦痛たるや筆舌に尽くしがたいものがある。

そこで前述の知人の話に戻るのですが、その方曰く「自分は今まで商売だけでなく、地域の人々の為にボランティアをやってきた。その徳の積み重ねが、恐らく自分を助けたのだと思う。」と。僕自身にも思い当たるフシがある。その方にはどことなく男気というのか、人間的魅力があるのだ。言葉では表現しにくいのが悔しいが、僕ならまさかその人を騙そうとは間違っても思わない。

また、その方は「親や先祖の行いが、その子や孫に報いや褒美として回ってくる事もある。だから、自分の事だけを考えて生きていてはいけない。」とも仰った。確かにそれはあると思う。その方の助かり方がある種神懸り的だったからだ。少なくとも僕はその方は助からないと思っていた。反対に騙した人間は今、小室哲也容疑者と同じような責苦を味わっている事と思う。

社会的に成功を収めた人や、地位の高い人は特に気を付けなければならないと思うが、地位が上がればそれに比例して、相手にする人数が増えていく。そうなると、一人一人との関係は希薄になり、自分に自覚がないまま人を傷付けている事もある。元厚生労働事務次官殺傷事件などもそうだが、どこで恨みを買ってしまうか分からないのです。

話が非科学的になってしまうが、その知人は「常日頃徳を積んでいると、何か不幸な出来事があった時でも、最悪の事態は免れる。」とも言っていました。僕は人生経験においてその方に遠く及ばないので、その事についての検証が十分にはできていませんが、要旨は分かるつもりです。つまり、いい行いを続けていると、誰かが助けてくれるのだと言うのです。事実その方には色んな支援者が現れましたし、たまたま生まれた血筋も大きく影響したのです。

自分以外に守るべき大事な人がいる方は、これらの事を絶対に忘れないようにして下さい。両親や、配偶者、子供や孫、友人、恋人など。自分の悪事の因果がその大事な人に災いとして回ってきたらどうですか?僕ならそんな自分は絶対に許せません。

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時間を有効利用するには

「時間の使い方が最も下手な者が、まずその短さについて苦情を言う。」ラ・ブリュイエール

ラ・ブリュイエール(1645年8月17日-1696年5月10日 フランスのモラリスト)上流社会を鋭く観察し、1688年に発表した「人さまざま」で、人間心理や当時の世相を鮮やかに描き出した。

よく、「急ぎの仕事は忙しい人に頼め」と言いいます。ただでさえ忙しい人に余計に仕事を増やす事は、なんとなく遠慮してしまうものだが、常に忙しくしている人がそれを引き受ける場合には、絶対に早く仕上がります。

というのも、忙しい人は自分の仕事の処理スピードが大体どのくらいなのか?それにはどの程度の手間や時間が掛かりそうなのか?を瞬時に判断する。これは幾多の仕事をこなしてきた事による揺るぎない経験に基づく予測なのです。

しかも仕事の優先順位を付ける事にも長けているので、その場で片が付くような事であれば、本人の目の前で電話を掛けるなどして、手早く終わらせてしまいます。政治家などに多いタイプです。彼らの「そのうちやっておく」はやらない事と同義です。

また、忙しくしている人は可能な限り前倒しで仕事を進めていく為、結果的には時間が余ってくるのです。そのような人は、余暇を利用して、自分の為にリフレッシュする時間を持つ事も忘れません。

反対に時間の有り余っている人は、いつでもできるという甘えがあり、結局ギリギリになるまで手を着けない。しかも、その仕事に対して割いた時間はそれ程でもない為、内容にも満足できるものはない。

それが自分で責任の取れる事であれば、何の問題もないのだが、そういう人は得てして依頼者の都合を考える、という発想自体がない場合が多いようである。結果頼まなければ良かったと依頼者に思わせてしまう為、以後の仕事が入ってこなくなり、今まで以上に暇を持て余すようになる。

人生には必ず終わりがあります。そこから逆算していくと、今この時をうかうかと過ごしている訳にはいかないはずなのである。何も生き急ぐ必要はないが、どんな事でも無駄にしないという貪欲さを身に着けなければと思います。

それは、動作にも表れるもので、例えば身のこなしや、喋るスピードが速い人には、仕事の早い人が多いように思います。もちろんそうしなければ、こなせない仕事の量を抱えているから、自然とそういう習慣になるのだとも言えますが、逆に考えれば、一つ一つの動作スピードを上げていく事で、思考や処理のスピードを上げる訓練になると思います。

これは、高速道路をしばらく走り続けたあと、一般道に入った時に車の流れがいつもより遅く感じる(これを脳の可塑性といいます)。という脳の仕組みからも根拠はあります。僕も含めて、時間が足りないといつも嘆いている方には、試してみる価値のある方法論だと思います。

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世界平和を個人レベルで考える

「平和というものは、人間の世界には存在しない。しいて平和と呼ばれているのは、戦争の終わった直後、またはまだ戦争の始まらないときをいうにすぎない。」魯迅 「墳-摩羅詩力論」 より

魯迅(ろじん 1881年9月25日 - 1936年10月19日)は、中国の小説家、翻訳家、思想家。代表作に『阿Q正伝』、『狂人日記』など。

巷に、元厚生事務次官連続襲撃事件の不安が広がっている。というのも、今更ながら己の無防備さに対して警鐘を鳴らされた気がするからである。犯人は「宅配便です」とインターホンを鳴らし、配達を装うため箱のようなものを手にして犯行に及んだという。

だが、政治家やキャリア官僚ならいざ知らず、我々一般市民はインターホン越しに宅配便業者が立っていたら、何も疑う事もなくドアを開けてしまうだろう。自分が誰かから恨まれているかも知れないという自覚があれば、警戒もしようものだが、普通に生きていれば他人からそれほど恨まれるような出来事はあろうはずもない。

今回の事件の犯人像は、社会保険事務所の一連の不祥事の責任を取らされて、懲戒解雇された元職員ではないか、との憶測も飛び交っている。一刻もはやく捕まってほしいものだが、日本人の危機管理に対する意識の低さにも問題はあると思う。一昔前の話になるが、イラクをはじめとする中東諸国を旅行していた邦人男性が、ザルカウィ率いるイスラム原理主義過激派グループに殺害される事件があった。外務省でも渡航先として、延期または退避勧告をしていた地域であった。

日本に住んでいると、平和に慣れすぎてしまい、例えば公共の場に出ても、ジーパンの後ろポケットに財布を挿したまま人込みを歩いたり、電車やバスの中で鞄に手を掛けずに寝ていたりする人が多く、傍から見ていてもハラハラする事がある。世の中は平和な方が良いに決まっているが、それは放っておいても維持ができるというものではなく、皆がそれぞれ少しずつ譲り合い、ともすれば紛争になりそうなところを法律や昔からの常識、他者からの目などを抑止力にして成り立っているのである。

それは人間に与えられた知性の結晶である。この世からは、なかなか戦争やテロがなくならないが、民主国家では、とどのつまり意見の総和によってその方向に進んでいってしまうのであるから、私たちは普段の生活の場においても、争いに繋がるような行動は厳に慎むようにしなけらばならない。

個人と国家をダイレクトに結びつけて考える事は、少々想像力を働かせる必要があるかも知れないが、戦争はいけないと言っている人が、例えば他人の車の運転が気に入らないと言っては、みだりにクラクションを鳴らし、車中から怒鳴ったりするような行動は随分と滑稽な話だと思うのである。貴方の周りにもそんな人がいないだろうか、その人に少しで良いから想像力を持って普段の生活を送ってみる事をお勧めしてみてはいかがでしょうか。

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顔は人生の履歴書

「虎は何故強いと思うね?もともと強いからよ。お主はもともと弱いから、そのような凶相になるほど剣の修行をせねばならぬのだ。哀れなことよ。」前田慶次 漫画『花の慶次 ―雲のかなたに―』より。理不尽な果し合いの要求をされた慶次が相手を諫めるために言った台詞。

前田慶次郎利益 (まえだ けいじろうとします、天文12年(1533年?1541年?) - 慶長17年(1612年)?)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将で、前田利家の義理の甥。武勇に優れ、古今典籍にも通じた文武両道の将だったが、奇矯な振る舞いを好むカブキ者としても知られた。

街を歩いていると、いかつい顔をした、いかにもその筋の人かと思われる人が、肩をいからせながら歩いているのに出くわす事がある。でも、ホンマもんの人の話を聞くと、玄人はすぐにそれと分かるような格好はしないそうだ。ぱっと見には人の良さそうな顔をしている。そして、最初は親しげに近づいてくるそうだ。そして、必要な喧嘩以外はしない。つまりものすごく効率がいいのだ。

サングラスを掛けた萬田銀次郎みたいな風貌の人は、もしかしたらその弱さを必死に隠そうとして、虚勢を張っているか、慶次が言うようにもともと弱いから、色々な悪事を働いた事によって、悪そうな顔に変わってしまったのだろう。案外自分に嘘の付けない素直な性格なのかも知れない。

かのリンカーン大統領が、知人からある人を秘書として雇って欲しいと頼まれたときのこと。リンカーン自ら面接をしたのだが、結局はその人の顔が気に入らないからという理由で断ったそうだ。知人が問い詰めると「男は40歳を過ぎたらその顔は親の責任じゃない。40歳にもなってくると、それまでの職業や生き方やいろいろなものが顔に反映されてくる。だから自分の顔に責任を持たなくてはならない。」と、ごもっともです。

僕はそのエピソードを小学生の時に伝記で読んで、リンカーンの厳しさに驚いたとともに、自分がその年齢になった時そう言われないようにしなければ、と思ったことを覚えている。現在の自分の顔にそれまでの人生が表れているかどうか客観的には分からないが、職業がその人の雰囲気を決めるという事はよく分かる。だからこそ、若いときに少々やんちゃであっても、ある程度の年齢になれば、人から疎まれるような仕事をしてはならないし、他人から必要とされるような存在にならねばならないと思うのである。

男の顔は人生の履歴書である。その事を心に刻んでこれからも生きていきたいと思います。

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怒りにまかせると・・・

「怒りを覚えたら、十数えよ。ひどく怒りを感じたら、百数えよ。それでも駄目なときは、千数えよ。」ジェファーソン 「語録」より

トーマス・ジェファーソン 1743年4月13日 - 1826年7月4日)は、第3代アメリカ合衆国大統領。首都ワシントンD.C.で就任演説をおこなった最初の大統領である。

僕の父はとにかくよく怒鳴る(笑)電話代の請求がおかしいと言ってはNTTのオペレーターに対して怒鳴り。所得税(国税)から住民税への税源移譲があった際、その恩恵が受けられなかったと言っては財務省の担当官に対して怒鳴り。年金の受給額がおかしいんじゃないかと言っては、社会保険事務所の担当者に対して怒鳴る。我が父ながら、すごいバイタリティーだなと関心する事もある(苦笑)

僕は幼い頃から、それを見てすごく格好の悪い事だと思いながら育ったので、どんなに腹が立ってもキレて怒鳴るという事はない。僕自身もよく父から怒鳴り散らされてきたので、怒声に対してはすっかり慣れっこになってしまい。そのお陰かどうか、そんな人に遭遇しても今ではまったく驚くこともなくなってしまった。逆にそういう人を見ると醒めた目で観察してしまうのだ。

また、そういうタイプの人は冷静さを欠いているので、対峙する相手としては与し易い印象がある。ひとしきり怒らせた後頃合を見計らって、こちらのペースに巻き込んでいけば良い。僕が本当の意味で怖いと思うのは、感情をあまり表に出さないタイプだ。何を考えているのか、読むのが難しい。なるべく喧嘩したくないタイプである。

もう一つ、怒りの副作用として、自分にその負のパワーが跳ね返ってくるという事もある。怒った後でスッキリするのかというと、大抵の場合には嫌な気分が残るものだ。まったく人情の欠片もない人間はこの限りではないが、大多数はきっと何となく後悔するはずだ。とくに、やり場のない怒りや、怒っても仕方のない事はさっさと忘れて、次に進んだ方がいくらか建設的である。

常に冷静を保ち続けていれば、怒鳴っている相手だって自分が恥ずかしくなって、徐々にトーンダウンしてくることもある。要するに格好悪い事を自覚しているからである。だから間違っても自分自身はそうならないようにしたいものだ。ムカっとした時には冒頭の言葉を思い浮かべてみては如何でしょうか?

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バッカスの戯れ

「一杯は人酒を飲み、二杯は酒酒を飲み、三杯は酒人を飲む。」法華経より

法華経の成立は、釈尊滅後からほぼ500年以上のちのこととされ、現在の仏教学では主にBC50年からBC150年の間に成立したと推定されている。

最近、自動車によるひき逃げ事故がほぼ連日のように起きています。しかもなぜか大阪に多い。昔から大阪は交通ルールを守らない地域性だと言われてきたが、酒に酔ってのひき逃げ事故となれば話は別です。

今月16日には富田林市で新聞配達中の16歳の少年が軽ワゴン車にはねられ、6キロ以上引きずられて死亡した。先月21日には、JR大阪駅前で30歳の男性会社員が約3キロ引きずられて死亡する事件があったばかり。

すぐに救護措置をとっていれば、危険運転致傷罪程度の事件であったものを、「免許停止中だったから。」「酒に酔っていたから。」という身勝手な理由で、尊い命を奪ってしまうような大惨事になってしまった。被疑者はいずれも「引きずったまま走れば死ぬことが分かっていた。」と証言をしており、警察では殺人罪の適用も視野に入れているとの事である。そうなれば、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役である。

こういう事件を見ると、ほとほと人間の愚かさに嫌気がさしてきます。僕は酒を飲まないし、煙草も吸わないので、自分の欲望に打ち勝てない人間がどうにももどかしくてなりません。酒を飲むと人間の持つエゴが表面化してしまうようですが、そうであれば何故わざわざ飲む必要があるのか。よく人間関係の潤滑油だという人がいますが、僕には自分を主張できない人の言い訳のようにも聞こえます。

己を律することのできない人間が、公共の場において酒を言い訳にして羽目を外すなど言語道断。これ程までに酒にまつわる様々なトラブルを目の当たりにしてなお、そこから何も学ばないまま自分の人生を踏み外すばかりか、他人までをも巻き込むなど愚かしい事この上ない。

ギリシャ神話の中にも、テーバイの王、ペンテウスが酒の神バッカスの教えの虜になった母親に、狂気と陶酔の祭りの中殺されるという馬鹿げた話があります。そして祭りの後、しらふになった母親が自分の息子を殺してしまったことに気付いたという話です。しまったと思ってからでは遅いのです。それでも、人はバッカスに弄ばれるのでしょうか。

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原点に返ること

「商の原点は、どうしたら売れるか儲かるかではなく、どうしたら人々に心から喜んでもらえるかである」松下 幸之助

松下 幸之助(まつした こうのすけ、1894年〈明治27年〉11月27日 - 1989年〈平成元年〉4月27日)は、日本の実業家。パナソニック(旧社名:松下電器産業、松下電器製作所、松下電器器具製作所)を一代で築き上げた日本屈指の経営者。

最近、僕の周りで原点回帰がキーワードになっています。自分のルーツを探る事で今までの自分を見詰め直したり、商売があまり芳しくないときに自分が一体何を成し遂げたくてそれを始めたのか考え直したり、など理由は様々ですが皆それぞれに既存の価値観のまま突き進んで良いものか否か、思い悩んでいるようです。

生きていると、色々な人に出会い、さまざまな情報が入ってくる中で、自分自身になんだか垢がついたような感覚に陥るときがあります。そんな時僕は幼い頃生まれ育った場所や、ゆかりの深い場所を訪ねることによって、気持ちをその時点まで巻き戻して、リセットするようにしています。

地方から東京や大阪などに出てきた人は、たまには地元に帰り幼馴染みと会って、昔話に花を咲かせるのもいいかも知れません。とにかく自分が生き急いでるなとか、最近何をやっても上手くいかないし面白くないな、と感じる時はぜひ一度元の場所に戻って、やり直してみて下さい。それまで見えなかったものがふと見えたり、見落としていた大事なことに気付くかも知れません。

人によってやり方は様々あると思います。例えば先日引退発表をした、体操の冨田洋之選手は、自分の演技が上手くいかない時には、基本の倒立などからやり直しをするといいます。またある人は、昔よく演奏していたハードロックをガンガンにかけて、自分が充実して輝いていた頃を思い出すと、もう一度頑張ろうという気持ちになるそうです。

もしかすると、日本中がそんな雰囲気になっているのかも知れませんが、それはアメリカ型資本主義の崩壊と無縁ではないかも知れません。人々の心のどこかに、今までのやり方ではいけない、もう一度原点に戻ろう、基本に立ち返ろうという気持ちが働いているような気がしてなりません。

商売の世界でも然り、利益追求が優先してしまい、その先にいる消費者の健康や満足はなおざりになっています。そういう意味で松下幸之助の言葉はより一層の重みを持ちます。何か大事なものを見失っていないか、私たち一人一人再考する必要があるかも知れません。

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文章を書くという事

「偉大な作家など、おいそれといるものではない。いるのはただ推敲に長けた文章家ばかりである。よく言われる通り、文章の90パーセントまでは推敲にかかっている。」 ノア・リュークマン著「プロになるための文章術―なぜ没なのか」より

僕が今こうしてブログに文章を書いているのに一体どれくらいの時間が掛かっているのでしょうか。正確に測った事はありませんが、書こうと思ってから、アップするまでに大体1時間くらいは経過していると思います。その内訳は資料集めや題材の選定に約15分、文章の中身や構成を考えるのに約10分、実際に書いている時間が約10分、校正と推敲に約25分です。

文章を書き始めて痛感したのが、自分が持つボキャブラリーが少ないという事と、相手に伝えるための表現力の拙さの2点。逆に、書いててよかったと思える事もあり、それは、読者からの反応があり、何かしらのメッセージを伝える事ができたという喜びを得られた事と、内なる自分に対する気付きがあったという事です。

世の中のブロガーの多くは、僕と同じような悩みや喜びを持っている事と思いますが、その人達と共感できた事もやって良かったと思えた事のひとつに挙げられるかも知れません。

ブログは本来「ウェブログ」といい、狭義にはWorld Wide Web上のウェブページのURLとともに覚え書きや論評などを加えログ(記録)しているウェブサイトの一種ですが、知識のあまりない人間でも比較的簡単に情報発信できる場を設置する事ができるため、情報の質的な低下や倫理観の欠如が問題視されています。

韓国などでは、その匿名性を奇貨として無責任に痛烈な批判を掲示板等に書き込み、それを自身で見、または聞いたことが原因で自ら命を絶ってしまう俳優や歌手などもいて、人間が為す行動の恐ろしさに背筋が寒くなると同時に、強烈な怒りを覚えます。

文章は、さまざまな力を内包しています。人を殺める事もあれば、それで救われる人もいる。その発言や文章に責任を持たなくてはならないのは、実社会でもインターネットという仮想現実社会でも一緒です。

そうであるならば、せめて自分の書く文章で一人でも多くの人を幸せにしたり、救ったり、迷いをなくしたり、勇気付けたり、笑わせたりしたいではありませんか。

昔であれば、テレビやラジオもしくは書籍等のマスメディアで発言できるのは限られた著名人だけでした。でも今や僕のような一般人でも世界中に情報発信できる時代です。今までは、周囲の人だけしか救えなかったものが、離れた人でも救うことが可能となったのです。そんな素晴らしいものを悪意に染めてしまうのはあまりにも狭量すぎると思います。

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虚勢を張る人の心理

「空威張りする人間は賢者に軽蔑され、愚者に感嘆され、寄生的人間にたてまつられ、彼ら自身の高慢心の奴隷となる。」フランシス・べーコン

フランシス・ベーコン(Francis Bacon 1561年1月22日 - 1626年4月9日)はイングランド近世(ルネサンス期)のキリスト教神学者、哲学者、法律家。

世の中には結構いますよね、虚勢を張る人。僕の周りにもそういう人がいます。虚勢を張るタイプに共通するのは、
1.自分に自信がない
2.小心者で内弁慶である
3.人目を必要以上に気にする
4.他人から認められたい気持ちが強い
5.自分を過大評価している
6.幼児性を有したまま大人になりきれない
などが、挙げられます。

こういう人は概して扱いづらく、ほったらかしにすると拗ねるし、反対に構い過ぎると途端に図に乗って依存してきます。自分では虚勢を張っている事を自覚してはいるのでしょうが、それを指摘されると途端に機嫌が悪くなるのですから始末に負えません。

しかも他人から見て、それが虚勢である事がバレているのにも関わらず、本人は意外に気付かれていないと思っているようです。ある意味幸せな事でもあり、本当の意味では不幸な事極まりない。

こういった性質は得てして男性に多いようです。男性は女性に比べて闘争本能がより強く働くため、他の競争相手に負けないように、実際以上に自分を大きく見せる必要があるのかも知れません。

昔エリマキトカゲがそのコミカルさを武器に一世風靡しましたが、虚勢を張る人はそれと同じように自身が他人(特に女性)から見て滑稽に映っていることを知らなければなりません。

自然体で生きればもっと楽になれるのに・・・とそういう人を見るといつも思ってしまいます。僕も昔は虚勢を張って生きていた事があるので、そのしんどさは痛いくらいに分かります。でも一旦鎧を脱ぎ捨ててしまえば、何のことはない。誰も自分の事を馬鹿にもしなければ、変に期待もしていない事が分かって、ある意味ホッとしたのです。それからは、自分がイイと思えばそれで良し、と割り切れるようになりました。

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漫画は読書と言えるのか

「読書の時間を大切にしなさい。一冊の本との出会いがあなたの生き方を変えてくれることだってあります。」ジョセフ・マーフィー

ジョセフ・マーフィー(Joseph Murphy, 1898年5月20日 - 1981年12月15日)は、米国で活躍した英国出身のニューソート派の牧師。潜在意識を利用することによって自らや周りの人さえも成功、幸福へと導く「マーフィーの成功法則」を提唱した。

僕の好きな、さいとうたかを画の「ゴルゴ13」が連載40周年を迎えた。ゴルゴ13ことデューク東郷は天才的な腕前を持つスナイパーで、依頼人から持ち込まれるミッションは完璧にこなす。現代の国際政治や経済問題などを絡めて描くアクション巨編。

他にも、「ブラックジャック」を始めとする手塚治虫作品などは、かなり好きで全集を持っていたりします。よく、読書というと何やら小難しいものをイメージし勝ちなのですが、日本の漫画は活字だけのものと比べても、その読み応えは遜色のないクオリティがあり、侮れません。

麻生総理大臣も秋本治作品の「こちら葛飾区亀有公園前派出所」はかなりのお気に入りだそうで、「両津(主人公のお巡りさん)を読んで、笑えない時は調子のよくない時」と公言するほどの愛読書だそうですね。

日本人の活字離れが言われて久しいわけですが、ある調査によると、日本人の場合、本と新聞、雑誌など活字媒体を読む時間は、1週間のうち4.1時間だそうです。調査対象になっている、主要先進30か国の平均が週6.5時間であった事を考えると、かなり低い水準だと言えるでしょう。ちなみに1日に置き換えると約35分となります。

テレビやインターネット動画など、気軽に映像や音声の情報が入手できるような時代になると、わざわざ時間を掛けて活字を読む手間が勿体無いという発想は分からなくもありませんが、活字離れと想像力や感受性の欠如は決して無関係ではない気がします。

読書をする場合には、自分の今までの経験に基づいて、登場人物の容姿や情景など色んなイメージを働かせることで、頭の中で情報を補います。その練習は、日常生活において、相手の気持ちを汲み取ったり、場の空気を読んだりする時に必要な能力を養っていると思うのです。

今の活字離れを少しでも回避する為に、良質の漫画は格好の媒体となり得ると思います。確かに絵は描いてあるのですが、登場人物の声や、効果音、色、匂いなど視覚以外の要素で想像を働かせる事ができる余地があります。

僕自身も子供の頃は、母親から「漫画ばかり読んでないで読書しなさい!」と怒られましたが、今の時代は幸いその効用が分かる人が親世代になってきましたから、「ネットばかりしないで、漫画を読みなさい!」などという親御さんも出てくるかも知れませんね。案外日本の漫画が世界から凄惨な事件を無くすきっかけとなるかも知れませんよ。

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下積み時代にすべきこと

「最初から和尚はない。ふき掃除から洗濯まで、小僧の苦労を重ねてこそ大和尚になれる。」安藤 楢六

安藤 楢六(あんどう ならろく、1900年9月14日 - 1984年1月11日)は、日本の実業家。戦後、東京急行電鉄株式会社から京王・京浜とともに分離・独立、新たに発足した小田急電鉄株式会社の初代社長。箱根への路線延長、ロープウェーの開業など、箱根の観光開発に尽力。新宿駅ビル、百貨店などをつくり、小田急グループの育成に貢献した。

今日ある方(以下「Aさん」という)と話をしていたら、“下積み”の話題になった。その方の息子さんは若くして社長になったので、いわゆる他人から使役されるという経験をしていない。その社長曰く、「従業員としての勉強より、社長としての勉強の方が、相手から求められる期待値が高い分だけ為になる。」そうだ。

確かに一理はあると思います。だが、Aさん曰く「社長にはその気になればいつだってなれる。だが、下積みは若い頃でないと辛いし、何より若い頃の方が吸収できる事が多い。」という。僕は個人的にAさんの意見に賛成です。

また、Aさん曰く「まずは現場を知らなければならない。現場や実態を知らないトップが何を言っても、本当の意味で従業員は付いてこない。」と、なるほどである。僕自身下積みの経験もあるし、社長の経験もありますが、やはり現場を知らない事には、的確な指示も出せないし、どこに注意を払うべきで、それに対処する最適な方法は何か、という事が分からない。何より人の痛みが分からない人間では部下はまず付いてはこないのである。

その時点において、社長であったり、従業員であったりというのは、ほんの一時期の役割分担であって、絶対的なものではない。時が経って、逆の立場になる場合だってある。つまり、その役割以前の話として、人間同士の付き合いが大事なのです。

若い人に多い学術的な経営論や、人材育成のスキル論は僕はあまり好きではありません。人間や経営は生き物であって、設計図通りにいかない所に面白さがあると思うからです。一定のセオリーのようなものが存在することは認めますが、それすらも結局は人間が持つ行動原理に則ったものです。

下積みの大事さはまさにその“生き物”に対応する為の知恵を磨き、蓄積することにあります。人はその下積み時代に、この先起こるであろう様々な苦難に対して挫けることなく、柔軟に対処する為の術を身に付けるのです。そうやって、しっかりと築いた基礎であればこそ、それが自信となって醸し出され、人に対しても安心感を与えるのだと思います。

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友人との程よい距離とは

「友情の価値は両方が独立性を傷つけずにつきあえるという点にあるのだ。」武者小路実篤 「人生論」

 武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、本名同じ、1885年5月12日 - 1976年4月9日)は、日本の小説家。『人間万歳』『或る男』『真理先生』など。

11月11日、北京五輪バドミントン女子ダブルス8強の小椋久美子・潮田玲子組、通称「オグシオ」が、ペアを解消しそれぞれ別の選手とペアを組み競技生活を継続すると発表した。高校生の頃からペアを組み始めた二人だったが、ここに来てロンドン五輪を目指したい小椋と、そこまでの気持ちになれない潮田の方向性の違いが、今回のペア解消を決定的にしたようだ。

人間には、その時々に応じて必要な出会いがあるように思います。自分が傷付いてる時には、励ましてくれる人が。頑張って前に進んでる時には同じような人が現れて切磋琢磨する。逆に自分の内面が陰に籠もってる時は、マイナスの波動を持った人が近付いてくる。

不思議なことですが、渦中にいる時はその人の存在が疎ましく思えるような人でさえ、後で振り返ってみた時、今の自分にとって必要な修練の場を与えてくれていた事に気付かされます。それが、その修練を終えたと本当の意味で自分が感じた時、不思議とその人との縁が切れます。

友人も「類は友を呼ぶ」の諺にもあるように、その時の自分のレベルに合った人が集まるようになっているようです。逆にあまりにもかけ離れ過ぎている人とは、付き合いができません。付き合っていても、一方は無理をしてしんどかったり、もう一方はつまらなかったりという話はよくある事です。

僕はある人からよく、「金持ちになりたかったら、自分より金持ちの人と付き合え」、「運がよくなりたければ、ツイてる人と付き合え」と教えられるのですが、それと似た事例として、周りを見渡してみたら自分がどんな人間かが分かるという事があります。

お金に汚い人や、すぐに嘘を付く人、調子のいい事を言うだけで本心を表さない人、自分の野心のためなら他人を踏みにじっても平気な人、いつも愚痴ばかり言う人、自慢話ばかりで人をけなしてばかりの人、こんな人が周囲に増えてきたら要注意!もしかしたら貴方もそんな風になりつつあるのかも知れません。友人や恋人はよく合わせ鏡と言います。相手の悪い部分が見えたら、自分もそうなっていないか、省みる必要がありそうです。

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引き際までも美しい

「死すべき時を知らない人は、生くべき時を知らない。」ラスキン 「断片」

ジョン・ラスキン(John Ruskin 1819年2月8日 - 1900年1月20日)は19世紀イギリスの評論家・美術評論家。

アテネ五輪男子体操団体金メダリストの冨田洋之選手が、自身が所属する東京都中央区のセントラルスポーツ本社で2008年11月10日引退会見を行った。

「自分が理想とする演技と、実際に映像で見た自分の演技にズレを感じるようになった。」事が引退理由だそうだ。アテネ五輪後の得点方法の変更で、体への負担が大きくなり、故障がちになった事も引退を早めた理由の一つになった。

冨田選手は、幼い頃から指先、肘、膝、つま先に至るまで、完璧に整った演技ができるように、地道な基本練習を何度も何度も重ねてきたという。「美しくなければ、体操ではない。派手なだけならサーカスと一緒。」という言葉の裏には、ルール改正で体操が本来追求すべき、完璧に制御された体躯の動きを軽視する方向性への痛烈な批判と、自身の演技に対する揺ぎ無い自信が隠されている。

だが、長らく体操ニッポンを牽引してきた大エースは、時代の移り変わりの中、求道者ゆえのこだわりである「完璧な美しさ」を具現化できなくなった時、表舞台からあっさりとその身を引いた。素人目から見ても、まだまだ第一線でやれる実力を有しながら引退する冨田選手の姿を見て、勿体無いと思ってしまうのは、素人ゆえの浅はかさか。

最後の瞬間まで完璧な美しさにこだわり続けた男の生き様は、引退に至るまでまったくブレる事のない美しさでその幕を閉じた。自分が第一線からの引き際を決めるとき、ここまで澱みなくいられるだろうか。それは全て、その時に至るまでの過ごし方に掛かっている。自分の信念を最後まで貫き通す強さをぜひとも参考にしたいと思った一日でした。

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人間は弱く愚かな生き物なり

「医者は人間を弱いもの、弁護士は人間を悪いもの、牧師は人間を愚かなものとみる。」ショーペンハウアー

アルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer, 1788年2月22日 - 1860年9月21日)は、ドイツの哲学者。世界は自己の表象であり、世界の本質は生きんとする盲目の意志であるとした。主著は『意志と表象としての世界』

最近、ニュースで連日のように、大麻所持や栽培等で大学生が逮捕されたという報道を目にするようになった。驚くのは、その売買が大学のキャンパス内で行われていた事実だ。スポーツ界や、芸能界でも同種の事件での逮捕者が後を絶たない。

警察庁のデータでは、大麻の摘発数は2005年から増えはじめ、去年は3282件で過去最悪。大学生を中心に、若者に広がっているのが最近の傾向だという。大麻が広まっている原因としては、関税法違反(無許可輸入)以外に大麻種子の所持を取り締まる法律はなく、観賞用などの名目での種子売買が横行していること。他のドラッグに比べ、常習性や副作用などの点で心身に与える影響が軽いという情報が蔓延していることがあげられる。

実際僕の身近でも、友人の彼女が大麻を吸引していたようです。彼の話によれば彼女とその兄が一緒に暮らしている部屋の一室で、兄が大麻栽培をしているらしいとの話でした。幸いその友人は大麻吸引の誘いも断り、彼女との縁も無事に断ち切ることができたのだが、ここまで日常生活に身近な話になってくると、ふと心に弱さや隙ができた時、その誘惑に打ち勝つ事ができるか否かは、本人の自制心の強さに委ねる以外に方法がないように思われます。

だが報道にあった大学生達が大麻の餌食となったきっかけは、心の弱さや隙があったというより、むしろ好奇心に起因するもののように思えます。実際前述の友人も彼女から「安全で常習性がないから、試しに吸わない?」などと持ち掛けられたようです。

僕自身は吸ったことがないので、本当に常習性がない事には懐疑的であるが、吸引時のリラックス感や多幸感はそれを差し引いても十分に魅惑的な効能だそうだ。とはいえ、安易な多幸感の獲得は、その安易さ故に真の幸福感に至らない事は確かである。

本当のリラックス感や多幸感は何か物事を真剣に行ったあとや、試験や仕事など極度の緊張状態から解放される事で訪れる身体的及び精神的弛緩の状態で感じられるものであり、人為的に作られるそれとは一線を画するものである。

全てのものが、努力もなしに与えられる状態は人間を脆弱にしてしまう。麦の栽培も「踏圧(麦踏み)」というストレスを与える工程を経て、丈夫で美味しい麦が育つのである。人間も踏まれたり、切磋琢磨する中で熟成されていくものだと思うのですが、如何でしょうか。

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心がひからびるとどうなる?

「心というものは、使わずにおくとひからびるものである、全体がよくなれば、またはよくなるために、部分が貧しくなるものもある。」ジイド 「断片」

アンドレ・ジイド(1869~1951)。フランスの小説家。1947年、ノーベル文学賞受賞 『背徳者』『狭き門』『田園交響楽』『法王庁の抜け穴』『贋金つくり』など

今日、友人と“感受性”についての議論になった。感受性は磨かなければ、身に付かない。経験によって磨かれる事もあるが、せっかくの経験も感受性が身に付いていない事にはそれが十分に吸収されない。

「感受性=土壌、経験=水」と換言してもいい。土壌が大きければ、当然大量の水を吸収できるし、それを耕し面積を増やせば吸収できる水の量も増える。

だが人間の面白いのは、逆もまた真なりというところである。つまり、様々な経験が感受性を育てる面もあるという事である。実際には、その相乗効果により、思いは倍加されその人の中に血肉となって生き続けていくという事かも知れません。

ただ、一つだけ確実に言える事は、感受性は意識的に磨かなければ、乏しくなってしまう場合もあるという事です。僕自身も気持ちに余裕のない時は、星が綺麗だったり、空気が澄み切って心地良かったりしても、何も感じられなくなる時があって、そんな時は「今、ちょっと危ないな」とか「心が枯渇してるな」などと自分自身で見つめ直す事で、意識的に感受性を取り戻すように工夫しています。

話を戻しますが、その友人が今日、ゴミ袋や紙おしぼりの袋を作っている企業の取り組みを見聞きして「僕らはビニールを破り、中身をとり出したらそれはゴミになるが、それに対して破りやすさや細かい工夫が施されている事を知らなかったし、気にも留めていなかった。僕らが普段その事に気付かないのは、企業がそれだけいろいろな工夫をこらした賜物なのだなと気付かされた。働くことの意義は誰かの喜ぶ顔が、その先にあるのだとは元々思ってたが、それ以外にも人がストレスや不満を感じず、普通でいられるために働くってこともあるんだなと思った。」と言っていた。

この“普通に暮らしていると気付かない事”に気付く事ができる事こそが感受性の恩恵なんですね。これってすごく素晴らしいことです。物の向こう側にいる人々に思いを馳せる。いま自分が会話している相手の気持ちを思い遣る。綺麗な景色を見て、それを地道に手入れしている人の存在を意識する。感受性を磨けば、今の何倍も濃密な人生を送る事ができると思います。人生とは即ち学び。感受性とはその学びをより深く、より豊かにする為に最高の武器となり得るのです。

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政治屋か、政治家か

「政治屋は次の選挙を考え、政治家は次の時代のことを考える。」

ジェームス・クラーク

「定額給付金、政府与党の迷走続く」

当初は、本年度に定額減税を実施する。という話だったように記憶しておりますが、ここに来て「1人当たりの給付額を12,000円とし、18歳以下の子供と65歳以上の高齢者については、さらに8,000円を加算して20,000円とする。」という方向で話がまとまりそうです。これもどうなる事か分かりませんが・・・

但し、世帯年収を1,500万円未満とする案もあり、それについては国が世帯収入を正確に把握せねばならず、事務的な問題も含めて、なかなか難しいようです。元々市町村は各個人の所得を把握しております。当然世帯収入も掴んでいる訳ですが、この情報を今回のような目的の為に使用するには、法改正が必要だったりして、遅々として進んでおりません。

昔、鳴り物入りで「住民基本台帳ネットワークシステム(住基ネット)」というものが全国の地方自治体に導入された事を覚えているでしょうか?簡単に説明すると、住民の利便性の向上と国及び地方公共団体の行政の合理化に資するため、氏名、生年月日、性別、住所などが記載された住民票を編成したものを全国共通の本人確認ができるシステムとして構築されました。

当初は、この住基カードに組み込まれているICチップで、買い物等も出来るようになり、個人の収入や納税額、買い物の履歴まで管理できるシステムとして、導入が検討されていた記憶があります。この案は個人情報保護法案の前にあえなく立ち消えとなってしまいました。導入直後には、市町村職員による住基ネット漏洩事件が相次いで起こりましたね。

話が脱線しましたが、今話題になっている定額給付金。もし貰ったら使いますか?僕は必需品の購入に充てるつもりでおりますので、今は買うのを我慢している状態です。お分かりでしょうか?元々景気浮揚の為の対策である定額給付金、それが支給されるのを待っている間、買い控えが起こっているのです(笑)これでは、余計に個人消費が冷え込んでしまい景気浮揚どころではありません。

バラマキ型の景気対策で、即効性を目論むであれば、年末商戦前に支給し、かつ期限付きの有価証券にしなければ意味がありません。そうでないと、所得の低い世帯ほどそれが貯蓄に回ってしまう可能性が高いのです。そうなると、これは景気対策でもなんでもなく、年明けに行われるであろう解散総選挙を睨んでの人気取りにしかならないのです。

一国の宰相たる者が、閣僚や与党幹部の意見もまとめられない、リーダーシップを発揮できないのでは、国が元気になるはずもありません。大統領選が終わった合衆国は、錬金術の失敗を確実に日本に押し付けてきます。国内消費の冷え込みを貿易で補おうとするからです。

そんな時政治が一丸となっていないと、国民生活は益々困窮し、商店街や町工場はどんどん閉鎖していく事でしょう。国民は政治に愛想を尽かし、無関心になる。政治家は私利私欲の為に政治をする。官僚は責任のたらい回し。そんな国に魅力など感じるはずもありません。

国民一人一人が、しっかりと先の事を見据えて、近視眼的にならない事が大事です。政治をもっと自分の事と捉え、機会があればどんどん発言していくべきです。TVで放映される、耳に心地のいい演説やマニュフェストに騙されてはいけない。自分の頭でこの国をどうしたいのか、この機会に真剣に考えましょう。政治屋や官僚に愚民呼ばわりされて、国を好き放題にされてはなりません。

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言論の自由と情報リテラシー

「世に最も美しいものは、言論の自由である。」ディオゲネス

ディオゲネス(英:Diogenes、紀元前412年? - 紀元前323年)は古代ギリシアの哲学者。アンティステネスの弟子で、ソクラテスの孫弟子に当たる。シノペ生れ。犬儒派(キュニコス派)の思想を体現して犬のような生活を送り、「犬のディオゲネス」と言われた。また、大樽を住処にしていたので「樽のディオゲネス」とも言われた。

インターネットという匿名性の高いメディアを悪用し、また一人愚かな男が警視庁に逮捕された。
10月31日、インターネット掲示板に殺人予告を書き込みした男は「秋葉原の事件以降、ネット掲示板に殺人予告の書き込みが減ったのでやった」と供述しているという。

同日、航空自衛隊トップの田母神俊雄・航空幕僚長(60)が、日中戦争についての論文を発表した。文中田母神氏は「我が国は蒋介石により戦争に引きずり込まれた被害者」と指摘しながら、旧満州や朝鮮半島が「日本政府と日本軍の努力によって、圧政から 解放され、生活水準も格段に向上した」と植民地支配を正当化。

そのうえで「多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価している。我が国が侵略国家だった などというのは正に濡れ衣だ」と結論づけている。このほか、集団的自衛権の行使を禁ずる憲法解釈などを「東京裁判のマインドコントロール」と批判する内容の記述も含まれているという。

しばしば言論の自由と、プライバシーや名誉毀損等の間のバランスを巡って訴訟となる事がある。日本国憲法第21条で保障されている自由権の一種である言論の自由は、元々権力からの検閲を受けることなく自身の思想・良心を表明する自由を指す。

ただ、この言論の自由は、公共の福祉に対しては優先権を持たないようであり、犯罪性の強いものや、件の幕僚長のように国際摩擦を起こしかねないような発言については、厳しく追求される事となります。

日常生活においても、「静の暴力」と言われるように、言葉はしばしば身体的な暴力よりも、被害者にとっては重い傷跡となって心に刻み込まれる事があります。自分の過去を思い返してみても、小学生の頃などは他人の気持ちを慮る想像力が無かったのか、相手に対して相当酷い言葉を言っていたかも知れないと、今更ながら反省する事があります。

僕がその年代の頃は、それ程陰湿なイジメなどはなかったように記憶していますが、学校裏サイトなるものが横行する現代においてはそのせいで自殺をする児童も存在し、自由を履き違えた言論については、周りの大人が統制をせねばならないところにまで来ているのではないかとすら思えます。

前述の殺人予告をした男も、「最近規制が厳しくなり、インターネット掲示板等に予告が少なくなって、退屈だったので自らやった。」と供述しており、内面の充実を図らないまま、頭脳だけは一人前になったあげく、言うことだけは立派で中身はカラッポという大人が増えてきたように感じます。

ましていわんや、責任あるポストにある人間は、自分の発言の社会的影響力というものを、常に意識して発言せねばなりません。僕はそれ程影響力のある人間ではありませんが、かつて人から「ひとこと多い」と評されていた事があり、それが元で周囲と軋轢を起こしたこともありました。今はその反省を踏まえて、自分なりに解消法を見付けたので、そういった事はなくなりましたが・・・。相手の身になって発言する。たったそれだけの事なんですが、なかなか出来ない人が多いようです。想像力の欠如でしょうか・・・

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アメリカ大統領選

「国家は人間と同じく、成長・壮年・老衰・死減がある。」ランダー 「架空の会話」 より

ランダー イギリスの文学者 他に、「ロバート・サウジィ家の書簡」「優雅なる会話」など。

11月4日深夜(日本時間5日昼)、アメリカ大統領選の開票があり、民主党のバラク・オバマ上院議員(47)が共和党のジョン・マケイン上院議員(72)を破り、合衆国第44代大統領に当選した。

本名バラク・フセイン・オバマ(1961年8月4日、ハワイ州ホノルル生まれ、47歳。父はケニア出身の黒人、母は白人の米国人。ハワイ、インドネシアで育つ。ハーバード大法科大学院修了。シカゴを拠点に弁護士として公民権運動や貧民支援に携わり、シカゴ大法科大学院講師(憲法)を経て、97~04年イリノイ州上院議員。04年に連邦上院に当選。上院議員1期目で第44代大統領に当選。ミシェル夫人との間に娘2人。)

今回の大統領選は実にエキサイティングだった。予備選では、第42代アメリカ合衆国大統領ビル・クリントンの妻で、ニューヨーク州選出上院議員のヒラリー・クリントンと最後までギリギリの接戦を制し、民主党の大統領候補に選出された。また副大統領候補選びでは、共和党のマケイン候補が、民衆から高い支持率を誇るアラスカ州の女性知事、サラ・ペイリンを選んだ事で戦いの行方は分からなくなっていた。

そんな戦いを制し、晴れて大統領となったオバマ氏だが、山積する問題があり、そう喜んでばかりもいられないようだ。合衆国も日本と同じく、今回の世界同時不況の打開策として、中低所得者層向けの大幅減税策などを、打ち出してはいるが、どちらも元々税収不足の中、国債の増発は避けられず、それほどの大盤振る舞いができるはずもない。

今回の世界経済の悪化を見て思う事は、欧米型の資本主義というイデオロギーが疲弊してきたのではないかという危惧である。もちろん社会主義が失敗に終わった過去があり、だからと言ってそれに代わり得るイデオロギーが生まれているかというと、そうではないのだが、ごく個人レベルで見た場合には、行き過ぎた利益至上主義に対し、このままで良いのか、もっと内面の充実を図る事が重要なのではないか、と考える人が僕の周りにも増えてきたように思う。

成熟債権国家に近づきつつある日本が、行き過ぎた利益至上主義に警鐘を鳴らすべく、世界経済にとって強いリーダーシップを発揮すべき時が来ているのではないかと思う。確かに超少子高齢化社会、非正規雇用者が全被用者の3分の1、最新の日銀の短観(企業短期経済観測調査)や景況判断指数(DI)予想値はマイナス、と不景気なキーワードばかりが目立つが、今タンス預金に回っている、日本の個人キャッシュを回す手立てがあるとすれば、老後の絶対的安定を約束する制度の確立、終身雇用制度に近い企業の雇用に対する取り組みなど、かつて日本型経営と言われていた仕組みを再度見直してみるのも一考かも知れない。

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お金への執着心

「私が恐れているものは、ただ一つ。お金です。お金への執着、金銭欲こそは、ユダをしてイエスを裏切らせる動機となったのです。」マザー・テレサ

マザー・テレサ(Mother Teresa, 本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ(「花のつぼみ」の意)、1910年8月27日 - 1997年9月5日)は、カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者。

『マタイによる福音書』ではユダは金目当てで祭司長たちにイエスの引き渡しを持ちかけ、銀貨三十枚を得る約束をとりつけている。『ヨハネによる福音書』では高価な香油をイエスの足にぬったマリアを非難する。そこに続けて彼が使徒たちの会計を任されながら、不正を行っていたと記されている。

お金に目が眩んで、悪に魂を売ってしまったという聖書の一節です。人は何故こんなにもお金に執着してしまうのでしょうか。世の中で起こる悲劇の多くが金銭絡みである、という事が分かっていながら、人はお金に縛られて、支配されてしまう。ならばいっその事、追いかけなければトラブルに巻き込まれたり、騙されたりしないのに。と思うのは書生論でしょうか。

少し前の話ですが、僕の周りでも、仕事に絡んで嘘の使い道を説明して、人に金銭を持ってこさせ、あげく騙し取った人間が居ました。そう言えば、その人間も小室氏と同じように、政治家の名前を出したり、芸能人の名前を語ったりしていましたね。詐欺を働く人間というのは、どうも類型が同じ人種のようです。相手を信じ込ませる為に、自分を実際より大きく見せたり、話に真実味を増す為に、政治家や役所、大会社の名前を並べます。

また、概して金銭感覚が一般のそれとはかなり隔たりがあり、借金をする事に対して何の躊躇いもないようです。自分の金と他人の金(預り金など)の区別がついていなく、そのくせ驚くほど小心者なのも共通しているようです。その割に虚栄心が強く、他人から認められると大げさに喜びます。

他人から騙し取った金は、自分の手元に残ることはまずありません。「悪銭身に付かず」とはよく言ったもので、気持ちよく使える金でもないのです。大抵は借金の返済に消えていく事が多いようです。しかも、その後は被害者からの告訴に怯えて暮らす毎日では、とても割に合いませんよね。

全ては、自分のお金に対する向き合い方の問題。節度を持って付き合えば、お金は生活を豊かにする為に有用なもの。道具でも武器でもそうですが、それを使う者の人間性が何より大事なのは言うまでもありません。自分が少しでもルーズな所があるな、という自覚のある方は今から改めて下さい。その先に待っているのは、破滅への道かも知れませんよ。

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自分には決して嘘はつけない

「あらゆる詐欺のうちで第一の、最悪のものは自己欺瞞である。」
ベイリー 「フェスタス」 より

今朝起きてTVをつけたら、いきなりこんな報道が目に飛び込んできた。
「数多くのヒット曲を生み出した小室哲哉・音楽プロデューサー(49)(東京都港区)が、音楽著作権の売却を持ちかけ、兵庫県芦屋市の会社社長(48)から5億円を詐取した疑いが強まり、大阪地検特捜部は3日、詐欺容疑で小室プロデューサーら数人の逮捕状を取った。 4日に取り調べを始め、容疑が固まり次第、逮捕する方針。特捜部は5億円が小室プロデューサーの借金返済に充てられたとみて捜査を進める。」

小室哲哉氏については、説明不要でしょう。日本人でその名を知らぬ者は居ない程の超有名人。最近は吉本興業㈱に所属するなど、人気が凋落傾向にある事は、誰の目にも明らかではあったが、まさかここまで落ちるとは・・・

小室氏があるトーク番組にゲスト出演した際、「一時は自分が幾ら稼いでいて、それがどんな風に使われているのか全く知らなかったし、実感が伴わなかった。結婚してから妻の実家で正月に餅つきをしたり、親戚が集まって食事をしたり、そんな普通の生活が今は楽しい。(人気絶頂の)あの頃は、精神的にすごく追い詰められていて、今生きているのが不思議なくらいだ。」という話をしていた。

実像とは掛け離れて、一人歩きしていってしまう偶像。それを自分自身だと言い聞かせ、必死に取り繕う事で生じる無理。知らない内にどんどん祭り上げられていき、与り知らぬ所で進んでいくビッグビジネス。音楽を純粋に愛して止まなかった少年は、いつしかその地位・名声・金・才能を目当てにした大人によってどんどん汚され、最後はその責任を全部支払わされる羽目になった。

そのトーク番組での満ち足りて安心しきった表情の小室氏を思い出すと、僕はそんな想像をしてしまいます。もちろん真相は当事者しか分からない事ではありますが、数々の感動をその楽曲を通じて大勢の人に与えてきた音楽家の凋落に心を痛めずにはいられません。僕自身もアルバム「globe」には深い思い入れがあります。せめて、その楽曲に勇気付けられたり、救われたりした人々には嘘を付かないで欲しい。最後のプライドを示してくれる事を願うばかりです。

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安定を手に入れて不安になる?

「この地球上に安定などない。あるのは機会だけだ。」ダグラス・マッカーサー

ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、アメリカ軍の将軍(元帥)。1945年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で連合軍代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちにアメリカを中心とする連合軍の占領下に入った。以後1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

より多くの収入を得、より大きな家に住み、より良い車に乗り、温かい家族に囲まれた生活を安定して送りたい。誰もが望むことであるでしょうし、とても素晴らしいことです。でも、いったん手に入れてしまえば、今度はそれを失う事が怖くなってしまう。そういう経験はありませんか?できる事なら永遠にこんな日が続けばいいのにと。

先日NHKのある番組でベテラン俳優が、安定について話をしていました。内容は「人生とは元々不安定なものである。安定を求めるから不安になるのであって、最初から無いものだと思えば、何の不安も起こらない。」という趣旨のものですが、この俳優も若い頃は仕事も不安定で、毎日将来の事について思い悩んでいたそうです。そんな時一冊の本に出会い、その内容に救われてからは、将来について無闇に思い悩む事はなくなったそうです。

その俳優は続けて言います。「元々安定はしないのが人生、そうであるならば、何が起こってもビクともしない自分をつくる事の方がはるかに大事である。」と。人生を長く生きている人は、こう考えるんですね。

僕にも持論があります。安定はそれをゴールとしている人間には訪れない。自分なりにがむしゃらに頑張って、ずっと走り続けてきて、ある程度の年齢になった時、そのご褒美としてもたらされるもの。そういうものだと思います。今の世の中では、ある程度の年齢になっても、なかなか安定しないようにも思えてきましたが・・・

ですが、仮にそうだとしても、もともと無いものだと思えば、失う事もそれ程恐れる事でもないような気がしてきますね。でも失ってしまったら・・・。そんな時頼りになるのは、まずは自分。周りの人が助けてくれるのは、それまでの自分の行いと努力が認められた場合のみと考えておいた方がいいかも知れません。

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成功する為に恐らく一番大事なこと

「この世の中で成功するには、力ずくで、死ぬまで剣を腕より離さないことだ。」ヴォルテール 「省察と格言」より

ヴォルテール(Voltaire, 1694年11月21日 - 1778年5月30日)は、啓蒙主義を代表するフランスの多才な哲学者、作家。パリの公証人の子。本名は、フランソワ=マリー・アルエ (Franc,ois-Marie Arouet)で、ヴォルテールという名はペンネームのようなもので、Arouetのアナグラムの一種、「ヴォロンテール」(意地っぱり)という小さい頃からの徒名(あだな)をもじった等諸説ある。

タイトルに“恐らく”と付けたのは、現時点で自分自身が成功を収めているとは思っていないからです。ですが、成功に一歩づつ近づいて行ってるという自負はあります。ですから、今から語ることは、もしかすると間違っているかも知れません。ですが、世の中の成功者と言われる人達にはある共通点があるのは確かなのです。

例えば、僕の知る人の例で言えば、その人は最初からTV等に出るような有名人になる事を目指してその仕事を始めたのではありません。その仕事が好きで好きで堪らなくって、仕事仲間達と本来の仕事が終わった後、その内の一人の家に集まって、寝食を忘れて、どうすればもっと上手くなるのか、どうすればもっとミスを減らせるのか、徹底的に追求したそうです。それをまた現場で実践してみる。上手くいけば採用し、失敗すればまた別の方法を考える。その繰り返しが、その後オリンピックで金メダルを獲るという結果をもたらしました。

また、ある人は僕に「君は常に大きな場所で勝負しなくてはいけない。そうでないといつまでもそのステージでの成功しか掴めない。」と教えてくれました。その人も過去には成功者には付き物の大きな挫折に見舞われたそうです。ですが、自分を信じて頑張ってきたからこそ、また心ある人の誘いで新たなステージへ旅立ちました。その人はいつも世界中を飛び回り、仕事もプライベートも毎日エネルギッシュにこなしておられます。

そんな人達の話を生で聞ける僕自身も、相当にラッキーだと思うのですが、ここで成功する為の最低条件を挙げてみたいと思います。これは、僕自身がやっている事でもあります。参考になりますかどうか。

1.自分が死ぬまでに絶対に成し遂げたい事を心に刻む。
2.自分なら絶対にできる!と強く強く信じる。
3.嫌なこと苦手なことから安易に逃げない。
4.他人のイイ所をどんどん真似する。
5.強運に生まれついているんだと自分に言い聞かせる。
6.前向きな人、運がいい人、成功してる人に近づく。そうでない人にはなるべく近づかない。
7.人との縁や好意には、感謝し誠意をもって応え、大事に育む。
8.毎日少しづつ、コツコツと楽しみながら続けること。
9.調子のいい時、上手くいってる時ほど、慎重になる。
10.自分がもう限界だと思った時、あともう少し頑張ってみる。

自分がまだ成功者でもないのに、このような事を書くのは少々口幅ったい気もしますが、僕はどんな状況になってもそこでベストを尽くす自信がありますのであえて書きます。

何をもって成功とするかはその人自身が決める事。他人は貴方が成功しても失敗しても、貴方の人生に責任をとってはくれません。ですから、そんな事は気にせずに自分が思い描いた人生を、思いっきり自由に飛び回って下さい。きっと生きてて良かったと思える瞬間がもっと増えるはずです。

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本当の知恵者とは

「知恵を持つことは最大の徳なり。知恵とは、ものの本性に沿って理解し、真実をいい、しかして行うことなり。」ヘラクレイトス 「断片」より

ヘラクレイトス(紀元前540年頃 - 紀元前480年頃)は、ギリシア人の哲学者、自然哲学者。

先日、新聞にこんな記事が掲載された。要旨は「文部科学省が、今春小学6年生と中学3年生を対象に行った全国学力・学習状況調査(全国一斉学力テスト)の結果を公表した。そんな中、小6、中3いずれも全国45番目となった大阪府が、全国の大都市圏と府のデータの比較作業に着手した。受験情報や塾が充実した大都市圏にありながら学力が低迷している問題について、本格的な対策に乗り出した。」というようなものだ。

この記事を見て、厳しい受験競争に晒され、精神的・肉体的にヘトヘトになっている子供たちが、一層疲れてしまうんじゃないか?幼少期に必要な情操教育に十分な時間を掛けずに、詰め込み型の学習をやる事にどれだけの意味があるのか?という疑問を抱かずには居られませんでした。

塾や学校に行く電車の中で、平気で弁当を広げて食べる子供。ショッピングセンターで奇声を発し、走り回る子供。信号を無視して平気で車列を横切る子供。皆で遊んでいる時に独り黙々とゲームをしている子供。そんな子供達を見て、勉強より先にもっと大人が教えるべき事があるんじゃないか?と思ったと同時に、そんな事すら教えてもらえない子供達が不憫に思えてなりませんでした。

そんな子供達が大人になったら、この国はどんな風になってしまうんだろう。口ばかり達者で、利己主義的な人間ばかりを量産しても、他者批判、弱者排斥、利益至上主義等々、そんな主張が繰り返され、潤いのない殺伐とした社会になってしまうような気がしてなりません。

勉強はその気になればいつだってできると思います。むしろその気もないのに無理に勉強させても吸収しません。ですが、情操面においては幼少期にする色々な体験や、周囲の大人達の教えがベースになっています。自分自身に置き換えてもそう思いますし、大人になってから会った何人もの同級生が、子供の頃の面影(性格も含めて)を残したまま成長している人が多い事からも、「三つ子の魂百まで」は証明されていると思います。

勉強よりももっと大事なもの。人間として豊かに生きていく為の様々な“知恵”は学校や教科書で画一的に教えていく事には限界があります。そもそも子供達にだって個性があり、特技が違うのです。様々な経験を通じて、その個性を伸ばしていく。それを自分の為だけでなく、周りの友人を助ける為にも用いる。

人間同士の助け合いは、古来“万物の霊長”と言われながら、しかし、種としては脆弱な肉体しか持ち得なかった人間の知恵でした。そして、狩の際には人間よりも強い動物達を集団で仕留めたのです。もう一度初心に立ち返って、人間の根源にある“知恵”を見直すことが必要かも知れません。

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大きな事はできません、小さな事からコツコツと

「わずかずつ加うることをくり返さば、やがて大なるものとならん。」ヘシオドス 「仕事と日々」

ヘシオドス 紀元前700年頃の古代ギリシアの叙事詩人。『神統記』、『仕事と日々』。

僕が今よりずっと若かった頃、(誰でも通る道だと思いますが)将来に対して漠然とした不安を抱いていました。そんな不安を払拭する為色んな人に話を聞いたり、生き方や自己啓発の類の本を読み漁りました。そうする中で自分が理想とする人物像ないし目標みたいなものが、徐々に出来上がりつつありました。

ですが、自分が掲げた理想と現実とのギャップはあまりにも大きく、どうすれば理想に近づけるのか、その方法も分からず焦燥感ばかりが募っていきました。いち早く理想とする地点に到達したいと願えども、現実はなかなかそうもいかず挫折しそうになる事もしばしば。

そんな時ある人から、「一足飛びにそこに行けるわけじゃない。焦る必要はない。地道にコツコツ頑張る事が結局一番の近道なんだ。」と言われ、ずっと背負い続けていた得体の知れない何かを降ろすことができました。

それ以来、変に焦るような事はなくなりました。かの豊臣秀吉は小田原征伐の際、敵方が合戦の最中にも関わらず芸事に興じたり、畑に青菜を植えたりしているのを見て、味方の諸将に対して「戦場でゆとりのある武士を誉め讃えよ」と言いました。

つまり、合戦のような緊迫した状態の時にでも、常に心にゆとりを持って物事に当たれ、という位の意味ですが、かつての僕はその“ゆとり”が無かったのだとつくづく思います。

心にゆとりが生まれれば、自分を客観的に見詰められるようになる。冷静に周りを見渡す事ができる。そうすれば、やるべき事も分かってくる。全てが好循環するようになります。そうして、目標を見失わず、目の前のことを一つづつ、確実にこなしていく事で、いつの間にか自分が理想とする人間像に近付いていくのです。

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