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2008年10月の22件の記事

正直は最良の策か?

「つねに率直に語れば、卑しい人間はお前を避けるであろう。」
ブレイク 「地獄の格言」

ウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757年11月28日 ロンドン - 1827年8月12日 ロンドン)は、イギリスの詩人、画家、銅版画職人。『無垢と経験のうた』『天国と地獄の結婚』『ミルトン』『エルサレム』などが詩人としての代表作。

昔教科書などでは「正直は最良の策である」という諺がよく載っていました。今も載っているのかどうか知りませんが、世相は「正直者は馬鹿を見る」という風潮にあるように思えてなりません。

自分の既得権益ばかりを主張する役人、外国産の食品の表示を貼り替えて平気で国内産だと言って売るメーカー、本来使ってはならない薬品を混入し製造する工場、夢を持って海外へホームステイしようと預けた金を平気で使い込む代理店、利益追求のみを考え、骨組みを減らして建築し、結果そのツケを購入者に回すマンション販売会社、枚挙に暇がありません。

損をするのは、いつも正直に生きてきた一般市民です。ですが、そんな正直者も騙され続ければ、いつの間にか他人を信じられなくなり、その言葉を疑ってかかるようになる。そんな大人を見て育った子供たちはどうなるんでしょう。自分だけは損をしたくない、自分が損をする位なら、他人にそれを押し付けてやろう。そんな風になってしまうかも知れません。

今の日本は経済的には随分と豊かになりました。ですが、先輩方と話をしていると、しばしば昔の日本の方が元気があったし、何より心が温かかったと言います。耳の痛い話です。何故人はこんなにも自分の損得ばかりを主張するようになってしまったのでしょうか。こんなに心に余裕のない人が増えてしまったのは、一体何が原因なのでしょうか。

その原因を国家や周りの環境に転嫁するのは簡単です。ですが、ここは個人の問題として落とし込んで考えてみる必要がありそうです。

僕は自分が正しいことをしているかどうか、迷いがある時には、正直に生きている人と話をする事にしています。その人の前にでると、自分に何か後ろめたい事がある時は、どうも居心地の悪さを感じるのです。何を相談する訳でもないのですが、その時点で自分自身に答えは出ています。つまり、卑しい気持ちが少しでもあると、正しい人の前で堂々としていられないのです。

そういう人は得てして損をするわけですが、目先の損得だけに囚われない強さをもっています。僕自身も他の人にとって、そういう人間になりたいと思います。その道のりは果てしなく険しいのですが(苦笑)いつの日か絶対に。

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怠け者の怠惰な考え

「なすべき多くの仕事を持っているのでなければ、徹底的に怠惰を享楽することは不可能である。」ジェローム 「怠け者の怠惰な考え」 より

ジェローム・クラプカ イギリスのユーモアリスト

人はともすれば楽な方に流れてしまいます。一時的に頑張る人は多くいますが、それをずっと継続していく事は、殆ど至難の業と言えるかも知れません。自分で頑張っていると思っている人は、恐らくまだその持てる力の全てを出し切ってはいません。なぜなら頑張っている状態の時ほど自覚が無いからです。

誰にでも経験がある事だと思いますが、仕事が充実して忙しい時には、遊びも一所懸命になって楽しめる。逆にそうでない時には、自分が何か燻っているように感じて、周りの生き生きしている人と比べては、自己嫌悪に陥ってしまい、何をやっていても楽しめない。

かくいう僕自身もなかなか仕事にありつけない時代がありました。選り好みをしていた事も一因としてあるかも知れませんが、エネルギーが有り余っているのに、それを発揮する機会がなくて悶々としていました。鬱屈したそのエネルギーが攻撃的な感情となって表れた事も多々ありました。

やるべき仕事が無いわけですから、時間は豊富にあります。その時間を持て余し、色々な場所に出掛けたり、スポーツをしてみたりするのですが、何をやっても熱中できないし、何より面白くない。同年代の友人は自分よりはるかに立派ではるかに大人に見えて、そのうち人と会うのも億劫になっていきました。

こうなると、マイナスエネルギーのスパイラルです。今になって思えば、その時の経験が若い人達に話をする際、説得力を持つエピソードとなっているので無駄ではなかったと思えているのですが、渦中にいる時はそんな余裕は全くありませんし、他人に与える等という大それた事ができるはずもありません。何せ枯渇しきった井戸のようなものなんですから、心の潤いはゼロです(苦笑)

やるべき仕事があるという事は本当に幸せな事です。人から必要とされる事もまた幸せな事です。でも、そうなる為には、やはり幾分かの努力や様々な経験が必要です。もし貴方がそうなれた暁には惜しまずに分け与えてください。忙しくはなりますが、それ以上の充足感を得られるはずです。そして、束の間自分へのご褒美として怠惰を享楽して下さい。それ以前とは全く違って、心から楽しんでいる自分がそこに居ます。

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行き過ぎた欲望の果てに・・・

「飢えた犬は肉しか信じない。」チェーホフ「桜の園」より

アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(Anton Pavlovich Chekhov、1860年1月29日 - 1904年7月15日)はロシアを代表する劇作家であり、また優れた短編小説家である。「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」

リーマン・ブラザーズ(2008年9月15日に連邦倒産法の適用を連邦裁判所に申請すると発表し、事実上破綻した。)の一件以後、世界中の株価や、通貨が下げ止まらない。

サブプライムローン(主にアメリカ合衆国において貸し付けられたローンのうち、優良顧客(プライム層)向けでないものをいう。)問題に端を発する今回の世界同時不況であるが、未だ出口らしきものは見えてきません。

では、何故こんな事が起こったのか?原因は複数存在しますが、今回は人の欲望という切り口で取り上げてみたいと思います。

このサブプライムのお蔭で通常の住宅ローンの審査には通らないような信用度の低い、主に低所得者層が夢のマイホームを手に入れる事ができた。と、そこまでは良かったのだが・・・

住宅ローンを証券化したものを投資家達が買う。金融機関はリスクの分散をし、投資家は利子所得を得る。極めて合理的ではあるが、元々ハイリスクな債務者であった低所得者層が、徐々にその返済に窮するようになるであろう事は小学生でも分かる事です。

昨今のアメリカ主導型の資本主義経済の行き過ぎを、個人的には常々懸念していたのですが、それが現実のものとなった今思う事は、世界経済が金儲けの効率ばかりに注力した結果、結局はアメリカの不動産バブルなど無縁な所でコツコツと生きてきた一般市民にまで、そのしわ寄せがいってしまった事への激しい憤りである。

マルチ商法やFX投資詐欺に引っかかる人も後を絶たないという。僕はウマい話には絶対に乗らないので、全く心配ないのですが、被害者の共通点は「欲深い」事である。少し考えれば、そんな高利回りの商品などあるわけがない事位分かりそうなものですが、その話を持ってくるのが友人だったりして、簡単に信じ込まされてしまうようです。

世の中に錬金術のような話がそうそうあるとは、僕には思えません。人間は額に汗して、田畑を耕したり、井戸を掘ったり、岩を運んだり、もっと地に足の着いた生き方をするのが本来の姿なのではないでしょうか。虚業ではない、実業を見直す。世界はそんな時期に来ているのかも知れません。そんな時主導的役割を果たすのは、比較的余波の少ない日本であってほしいと願うのです。

一部の人間の行き過ぎた欲望が、アイスランドなど国家の存亡までをも危うくしてしまう。我々一人一人今できる事は何か?本当の豊かさとは何か?この機会に貴方も考えてみては如何でしょうか。

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自由、その甘美な響き

「自由は責任を意味する。だからこそ、たいていの人間は自由を怖れる。」バーナード・ショー 「革命主義者のための格言」

ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw, 1856年7月26日 - 1950年11月2日)は、イギリスにおいて主に19世紀に活躍したアイルランド出身の劇作家、劇評家、音楽評論家、社会主義者。イギリス近代演劇の確立者として有名である。

人は大抵束縛される事を嫌います。かくいう僕も束縛されるのは苦手です。学生の頃は親の束縛を受け、社会人になってからは、会社からの束縛、家庭からの束縛、様々な束縛を受けており、人はその限られた制約の下、自由を享受しているに過ぎません。

ですが、この“自由”。考えてみると、とても無責任で怖い言葉だという事が分かります。様々な束縛から解放された時、人は一時的に得も言われぬ爽快感に満たされる事でしょう。ですが、それはそう長くは続きません。その次に訪れるのは、例えようのない不安感。その時人は、自分が大きなゆりかごの中で守られていた赤ん坊の様だった事に気付くのです。

この先誰からも必要とされないかも知れない。収入が途絶えるかも知れない。病気になって道端で倒れていても、誰にも気付かれないかも知れない。野辺で朽ち果てても構わないという豪傑は別として、大抵の人はまた制約の中での自由に懐かしさを感じるようになるのです。本当の自由とは吹き荒ぶ嵐の中に歩き出すようなものだと思います。

そんな状況がいつまでも続いていく事を想像してみた時、貴方はいつまで耐えられるでしょうか?僕ならあっさり白旗を挙げます。孤高を気取ってみたところで、他者との関わりを絶って生き続けていける程、自分が強い人間だとはとても思えないからです。

人は釈迦の掌の上で飛び回る孫悟空の如し、その庇護の下での自由くらいがちょうどいいのかも知れません。

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武将と雑兵、その違い

「仕事は探してやるものだ。自分が創り出すものだ。与えられた仕事だけをやるのは雑兵だ。」織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)天文3年(1534年)5月12日~天正10年6月2日(1582年6月21日)、尾張国の戦国大名・織田信秀の次男として、尾張勝幡城(那古野城説もある)で生まれた。幼名は吉法師。

この言葉は、あまりにも有名なので、誰でも聞いた事があるのではないでしょうか?今でもこの言葉を引き合いに出して、部下を叱咤している社長も多い事と思います。

これは、簡単に言うと主体性をもって、自ら考えて仕事をせよ。そうでないと、いつまで経っても平社員のままである。と言うことですが、確かに信長の言うことも一理あります。ですが、人にはそれぞれ分に応じた役割があると思うのです。「船頭多くして、船、山に登る」の諺にもあるとおり、全員が武将でも衝突しますし、雑兵だけなら迷走します。

大事なことは、所属する組織であれ、地域社会であれ、自らがその役割の中で何を為すべきかを考え、誰に言われるでもなく主体的に行動し、貢献する事ではないかと思います。もちろん立場や年齢によってもそれは違ってきます。

確かに、与えられた仕事だけをやっている分には、責任も掛からない上、考える手間隙も要らないので、ある意味ラクはできます。ですが、苦しみがない分、達成感の無いのもまた事実です。無くても良いと言うのなら構いませんが・・・

人生には正負の法則が働くといいます。歴史に名を残すような人物は総じて、波乱万丈の一生を送っていますし、凡夫はそれ程変化のない一生を送るからこそ凡夫なのでしょう。ですが、果たしてどちらが幸せなのか、というと答えはそう単純ではない。あくまでも主観の問題であるからです。

ですが、最低限「自分の人生を精一杯生き尽くした!」と言って一生を終えたいと思います。その為には、他人任せではなく、自らが主体的に考え、行動し、それに対して責任を持つ。その気構えがなければ仕事の場だけでなく、自分自身の人生においても雑兵になってしまいます。貴方は武将ですか?それとも雑兵でしょうか?

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忠告は秘かに、称讃は公に

「忠告は秘かに、称讃は公に。」シルス 「蔵言」

プブリウス・シルス(紀元前一世紀頃の、シリア出身のラテン語文筆家)

「私は褒められると伸びるタイプなんで」という人がいます。ですが、考えてみるとこれはおかしな言い分だと思います。そもそも人間には褒められずに伸びるタイプなど存在しないのですから。

ただ、闇雲に褒めれば良いのかというと、これがそうでもない。調子に乗りやすいタイプの人間には、時には雷を落とさねばならない時もあるし、自己評価の低いタイプであれば、得てして猜疑心が強いので、本人も気付いていないストロングポイントを褒めるのが効果的である。また、女性で言うならば、美人に対してその外見を褒めてもさほどの効果は得られない。

褒めるという事でもこれだけのテクニックを要する。では、叱ったり、忠告したりするのはどうであろう。その際には、褒めるときの何倍もの注意を払わねばならない。僕が人を叱ったり、また忠告を与える場合において、一番気を遣うのは相手のプライドを傷付けない事である。当然人前では絶対にやりません。

言葉は悪いが、どんなに出来損ないであっても、その人なりのプライドを必ず持っているもので、それを傷付ける発言をする事は、もはや教育的指導や忠告とは呼べない。それだけに、目の前の相手がどんな言葉に拒否反応を示すのか?また自尊心を保つための軸となるのは何なのか?それを見極めるには相当の眼力が必要である事は言うまでもありません。

僕自身も現時点でそれが身に付いているかと言えば、甚だ疑問ではありますが、常々心掛けている事ではあります。相手の為を思えばこそ、時には厳しく叱責せねばならない時もある。友人であれば耳の痛い話でも聞いてもらわねば、明らかに失敗しそうだなと感じる事がある。

それを伝えるにあたって、どんな言葉をチョイスするのか?相手はどんな言い方なら聞き容れやすいのか?逃げ道や言い訳をする余地も残しておいてあげねばなりません。窮鼠は必ず噛み付いてくるのです。そうなれば、せっかくの善意も水泡と帰してしまいます。それは、お互いにとって不幸なだけです。努々気を付けねばなりません。自戒を込めて・・・

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群集の心理とは

「人間はひとりひとりをみると、みんな利口で分別ありげだが、集団をなせば、たちまち馬鹿が出てくる。」シラー 「詩」

ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller、1759年11月10日 - 1805年5月9日)は、ドイツの詩人、歴史学者、劇作家、思想家。

群集心理を語るときよく「二八の法則」という言葉を耳にします。これは人間だけでなく、ミツバチ等にも現れる行動原理ですが、専門的には、「全体の生産量の大部分は一部の生産者によって生み出される。」と解説されています。

人が集まった時、過激な行動をとり易いのは何故でしょうか?また、凶悪事件が連鎖的に起こったり、自殺が流行ったりするのは何故でしょうか?何故頑張っている人がいる反面、サボる人間がでてくるのでしょうか?

これを「集団心理」といい「その社会の構成員である集団が、合理的に是非を判断しないまま、特定の時流に流される事を指す。集団心理の起源は、敵が出現した時の団結本能だとされる。一般に、個が確立されていない社会や、精神的に未成熟な子どもにはこの傾向が強い。」とされています。

成人式という自らの幼児性からの決別を誓う場で馬鹿騒ぎする若者や、インターネットに殺人予告をする者、自衛隊で格闘訓練名下に行われる15対1の集団リンチ、学校現場での陰湿なイジメ、世界各地で起こっているテロ行為、全て集団心理です。かつて満州や南京などで非道の限りを尽くした関東軍も、故郷に帰れば皆よき父でありよき夫であったといいます。

そこには、集団心理でいう団結本能だけでなく、集団になった場合に個人としての責任が希薄になるという「インゲルマンの法則」も関わってきます。貴方の周囲を見渡してみても、ごく近い人物にはそんなに悪い人は居ないのではないでしょうか?そんな人でも、自分があまり責任を感じなくてもいい場や、旅先など自分とは関わりの少ない人達の前では、途端にエゴを剥き出しにする人が少なくありません。

真に目指すべきは、誰の前でも普段通り責任のある行動をとり、他者への配慮を忘れず、崇高な志を持った、そんな“個”を確立する事だと思うのです。確たる“個”のない人間がいくら集団を成したところで、所詮は烏合の衆、大したものは生まれません。生まれるのは、数の論理を言い訳にしたエゴイズムです。

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人生を考察する

「いくつになってもわからないのが人生。わからない人生を、わかったつもりで歩むほど危険なことはない。」松下幸之助

松下 幸之助(まつした こうのすけ、1894年〈明治27年〉11月27日 - 1989年〈平成元年〉4月27日)は、日本の実業家。
パナソニック(旧社名:松下電器産業、松下電器製作所、松下電器器具製作所)を一代で築き上げた日本屈指の経営者。

日本の経営者やそれを志す若者達が、一度はその伝記を読んだ事があるのではないかと思える程の、日本が世界に誇る経営の神様。本ブログは経営や経済について、考察する事を目的としていないので、ここでは思想家、人生の先輩としての翁の言葉を採り上げる事とする。

翁はPHP研究所を設立し、思想にまつわるたくさんの書籍を出版しておりますが、中でもとりわけ上記の言葉が印象に残ります。この“つもり”というのが曲者で、解った“つもり”、やった“つもり”、言った“つもり”。キリがありませんが、お気付きでしょうか?これ全て自己評価です。

僕自身も経験がありますが、中学生や高校生の頃、よく友人達と昼夜を分かたず人生について語り合っていました。その当時の僕はまるで人生の悟りを得たかの如く、友人達に“人生”について熱く説法していました(苦笑)

今考えると恥ずかしい限りなのですが、歳を重ねてくると解ったつもりの事が、実は全然解っていなかった事に気付かされます。それも、解らない事の方が断然多い事を知り愕然としてしまうのです。

人生とはそれ故に面白いものだとも言えるのですが、結局答えなど存在しないその問いに対して、深く考え込んで貴重な時間を割くというのは賢明ではない気がします。ただ、何も考えず享楽的に生きるのとは次元の違う話ですが・・・

一所懸命に生きて、正解のないその問いに対する答えを自分なりに一つづつ見付けていく。その作業自体が人生そのものなのではないかと思うのです。それが現時点での僕の答えです。

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職業に貴賎なし

「世には卑しい職業はなく、ただ卑しい人があるのみである。」リンカーン

エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln, 1809年2月12日 - 1865年4月15日)は、第16代アメリカ合衆国大統領。初の共和党所属大統領。奴隷解放の父と呼ばれた。身長193cmと歴代合衆国大統領の中でもっとも高い。

子供の頃、親から「勉強しないと偉くなれないぞ、いい職業に就けないぞ」としばしば叱られたものです。そのとき僕は「何故、○○屋さんではダメなんだろう?」とか、「偉いと言われる人がテレビで謝っているのは何故なんだろう?」と反発を覚えていたのを思い出します。

学校教育の枠組みの中で頑張らないと、職業選択の幅が狭まるというのは確かにあると思います。ですが、それといわゆる“偉い”という事とは、必ずしもイコールではありません。どんな職業であれ、その中には偉い人もいればそうでない人もいる。

では、その違いとは一体何か?極論すれば、自己のためだけでなく、他者のためにどれだけ働いたか、社会に対してどれだけ貢献できたか、人が嫌がって敬遠する事を進んでやったか、そんな事なのではないかと思います。

では、その評価は誰が下すのか?自分でない事だけは確かです。つまり“偉い”とは自分から望むものではなく、一心不乱に働いた結果(ここでいう働くとは、必ずしも有償労働のみを指すのではありません)、自分の与り知らぬ所で、他者が判断する事であると言えます。

ですから、職業の選択は慎重に行わなくてはなりません。自分がその得意分野を生かし、周囲の人々を含む社会に対して、貢献できることは何なのか?自分の成長に合わせて職業を変えるのも悪くありません。より貢献できる分野に移る事は社会的な要請でもあるのですから。

ですが職業に貴賎なしといえども、あえて賎しい職業が挙げるとすれば、お年寄りなど社会的弱者を食い物にするような詐欺まがいの商法等でしょうか。彼らは恐らく社会に貢献しようなどという意識は微塵も持ち合わせてはいないでしょう。ですが、それすらも職業が即ち賎というわけではなく、それを用いて弱者を欺き、金品を奪わんとする彼らの心根が賎しいだけなのです。

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王様の幸福、百姓の幸福

「王様であろうと、百姓であろうと、自己の家庭で平和を見出す者が、いちばん幸福な人間である。」ゲーテ 「格言と反省」

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe, 1749年8月28日 - 1832年3月22日)はドイツの詩人、劇作家、小説家、科学者、哲学者、政治家。

ありがちな話として、30歳までに結婚したいとか、仕事を辞めて幸せになりたい、などという言葉を耳にします。そこには、結婚すれば無条件で幸福を手に入れられる、という幻想とも言うべき価値観が存在します。小学生の女の子が「将来の夢はお嫁さんになることです」というのは、まだ可愛いにしても、いい大人が結婚=幸福と短絡的に結び付けてしまっている所に、ある種コメディを通り越してトラジェディを感じます。

自分自身が育ってきた家庭を顧みて、絵本に出てくるような幸福な家庭だったでしょうか?否そんなはずありません。事の大小はあれど、それなりに問題はあったはずですし、いつも笑顔でいられた訳ではないと思います。それでも幸福でいられたのなら、それは両親が必死で護ってくれていたからでしょう。

結婚とは、少し乱暴な言い方をすれば、毎日をいつも同じ顔と向かい合いながら送る、平凡な日常の連続である。と言えるかも知れません。決してお妃様や王様になるわけではないのです。ですが、それなりに少しばかりの変化もあり、ハプニングもあり、また平穏が訪れる。

また結婚は究極の人間関係の修練の場であるとも言えます。まったく違う環境で育ち、思想も価値観も趣味も違う人間同士が共に人生を歩むわけですから、エゴをだしてばかりいたのでは、長続きするはずもありません。そこには、奉仕の精神や謙譲の精神等が絶対に必要になってきます。

ですが、嫌な事ばかりではありません。自分の一番の理解者が傍にいる事は何よりも心強いものですし、また、護るべき家族や親戚が増える事も自分が頑張る上で励みになるものです。家庭における達成感や成功は、ビジネスとはまた異質のものではありますが、日常における些細な喜びに大きな幸福感を感じられる人であれば、家庭を持つ事で幸せになる素質があると思います。

家庭における幸福は向こうからやってくるのではなく、自らが作り上げ、維持していくものであると僕は思います。

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三種類の友

「世の中には三種類の友がある。諸君を愛する友、諸君を忘れる友、諸君を憎む友が、これである。」シャンフォール 「格言と反省」

本名 セバスチャン・シャンフォール (1741-1794) フランス18世紀の文学者、警句家

この言葉を聞いてギクリとした人も少なくないのではないでしょうか?かく言う僕自身も思い当たるフシがないではありません。人間には色々な感情があり、その中でもとりわけ扱いの難しいのが、嫉みや妬みかも知れません。シャンフォールの言う憎む友というのは、もはや知人ですらいて欲しくないですが(苦笑)

クラスメートあるいはバイト仲間、同僚、表向きは仲のいいふりをして付き合いをしておきながら、心の奥底では友人(?)の失敗する事を期待している。この手の人種はとかく耳に心地のイイ言葉ばかりを吐きます。初対面なのにやたら愛想がイイのもこのタイプです。その実陰で貴方を批判したり、嘲笑したりしています。

我々は、苦言を呈してくれる友人をもっと持たなくてはなりません。人は誰も嫌われたくはありませんから、友人に対して否定的な発言をする事に躊躇います。ですが、本当にその相手を思うなら、あえて言わねばならない時があります。その時に嫌われたくないからと自分の心証を気にするのか、真に相手の成功を望むのか、貴方の真価が問われる瞬間です。

それで離れていってしまう関係なら、元々そんなもの貴方には必要なかったのです。独りになる事を恐れては、真の人間関係は築けません。自らがまず友人と本音で話し合える関係を築く事を心掛けてください。そこからが、親友と呼べる関係の始まりです。

友人とは面白いものです。シャンフォールの言葉は正に真理だと思います。


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悪魔の囁き

「人生はしばしば、善よりもむしろ悪の選択をわれわれに提供する。」コルトン 「ラコン」より

チャールズ・C・コルトン(イギリスの作家、1780~1832)「ラコン」「警句」

人は生きていると、様々な選択を迫られるときがあります。例えば道端に不意に1000万円が落ちていたとする。貴方は交番に届けるでしょう。100万円でもそうするでしょう。ではそれが1万円なら?5千円なら?どんどん怪しくなってきたのではありませんか?

誰も見ていないと確信の持てる状況下で、自分を律する事ができる人はこの世に何%くらい存在するのでしょうか?よく「性善説」「性悪説」という言葉を耳にします。

性善説(せいぜんせつ)とは、人間の本性は基本的に善であるとする倫理学・道徳学説、特に儒教主流派の中心概念。人の本性に関する考察は古今東西行われてきたが、「性善説」ということばは儒家のひとり孟子に由来する。

性悪説(せいあくせつ)とは、紀元前3世紀ごろの中国の思想家荀子が孟子の性善説に反対して唱えた人間の本性に対する主張。
と書籍ではこのように解説されています。

ここで、二つの説を考察する事は、本義ではありませんので、割愛しますが、善と悪は同じ人間がそのどちらをも内包するものだと思っています。それが、その時々の状況で使い分けられる。

人間はいつも順風満帆とはいきません。そしてこの“悪魔の囁き”は逆風の時こそ、我々の魂をジャッジするかの如く、目の前に見せかけのラッキーをぶら下げてきます。

そんな時に頼りになるのは、もはや自らの内なる声しかありません。他人の目や、(あるとして)目に見えない存在を誤魔化せても、自らの心には嘘は付けないのです。僕のよく知る人物にも、他人のみならず自らの心を欺き、社会の表舞台から今まさに消え去ろうとしている者がいます。

これを読んで下さる貴方にはそうはなって欲しくありません。常に自らの内なる声に耳を傾け、間違っても魂の汚れるような選択をしないで頂きたい。僕からの切なる願いです。

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毎日少しづつ・・・

「毎日少しずつ。それがなかなかできねんだなあ」相田みつを

相田 みつを(あいだ みつを、本名は相田光男、1924年5月20日 - 1991年12月17日)は詩人・書家。栃木県南西部の足利市に生まれる。栃木県立足利中学校卒業後、歌人・山下陸奥に師事。1942年に曹洞宗高福寺の武井哲応老師と出会い、在家しながら仏法を学ぶ。

これは、なかなか耳の痛い言葉です(苦笑)毎日コツコツと続ける事ほど難しい事はありません。人間はどうしても新しいものに目が行きますし、非日常に愉しみを覚えてしまうものです。退屈に耐え切れる程、人間は鈍感にはなれません。

ただ、何かを成し遂げようとする時には、それに耐えねばならない時が必ずやってきます。始めのうちは見るもの聞くもの全てが新鮮で刺激的に思えるものですが、ある程度軌道に乗り出すと絶対にルーティンに成らざるを得ない部分が出てきます。

一発当てるだけなら構いませんが、会社を経営するなどゴーイングコンサーンな物事には必ず中弛みの様な、ある種刺激とは程遠い作業がでてきます。でも、それを淡々とこなす事ができないと絶対に続ける事は不可能でしょう。

そこに、ある種の工夫を加えることが必要となるわけです。誰かと競い合うも良し、達成した後に自分にご褒美を与えるも良し、今までと違うやり方を編み出すも良し。大きな事をやろうと思えば思うほど、このルーティンを疎かにはできません。

それは、あたかも建築物のようです。平屋建てにそれ程強固な骨組みは要らないが、ビルを建てるとなると、その間には太い鉄骨・鉄筋を何万本も入れねばならない。そこを手抜きすると、耐震性の低い脆弱なビルになってしまう。そうやって少しづつ重ねた鉄骨・鉄筋(日々の努力)があればこそ、大きな目標も達成できるのではないでしょうか。

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幸せになるための努力

「闇があるから光がある。そして闇から出てきた人こそ、いちばん本当に光のありがたさが解るんだ。」小林多喜二

小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年10月13日 - 1933年2月20日)は、日本のプロレタリア文学の代表的な作家・小説家である。秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市)生まれ。

昨今の世相を反映して、「蟹工船」で話題の小林多喜二の作品から。
プロレタリアートとはブルジョワジーと対を成す言葉です。いわゆる今の格差社会を表す言葉として、頻繁に出てくるのでご存知の方も多い事でしょう。

人は様々な経験や出会いを通じて、自己を形成していきます。色んな喜びや悲しみ、苦労、成功、挫折など様々な想いの積み重ねの中で、他者への理解や思いやりが生まれ、心のひだが豊かになります。

つまり、他者の事を自分の事に置き換えて物事が考えられるようになるわけです。それは即ち“感受性”です。

幸せも今そこにある事にすら気付かないというのでは、いつまでたっても幸せになどなれる筈もありません。

毎日健康でいられる事、大切な人と一緒に暮らせる事、励まし慰めあう仲間の居る事、するべき仕事のある事、今まで自分を育ててくれた人の存在、心から笑える瞬間がある事、平穏無事である事、それらを“幸せ”と感じられるか否かは、それに気付くかどうかだけなのです。

その感受性さえ身につけさえすれば、誰だって幸せになれるのです。

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面白きこともなき世を面白く

「面白きこともなき世を面白く すみなすものは心なりけり」高杉晋作

高杉 晋作(たかすぎ しんさく、天保10年8月20日(1839年9月27日) - 慶応3年4月14日(1867年5月17日))は、日本の武士・長州藩士。幕末の長州藩の尊王倒幕志士として活躍。奇兵隊など諸隊を創設し、幕末長州藩を倒幕に方向付けた。

僕が維新志士の中で最も心躍らされる存在、高杉晋作の辞世の句です。但し当時肺結核を患っていた晋作は、上の句を読んだ時に力尽きてしまい、下の句はその看病をしていた野村望東尼がとつけたと言われています。

幕末はご存知の通り、エキサイティングな時代でした。幕府は黒船の来航(外圧)に怯え、人々が国の将来を憂いている点で、現代と似ているかも知れません。その当時は暗殺が横行し、人々は不安な毎日を過ごしていました。

現代も暗殺こそありませんが、一昔前では考えられないような事件が起こったり、人々の中に社会不安が蔓延している点では同じです。政府に対しての信頼が低下している点でも酷似しています。

そんな暗い世相の中、ひときわ大きな輝きを放った高杉晋作。「面白きこともなき世を面白く」の言葉の中には、ある種の厭世観も感じられ、また彼が志半ばで命が尽きる事への無念さが感じられて、胸が痛くなる思いです。

国家や社会に対して不平不満ばかり言ってても、何も変えられません。どんな些細なことでも、まず自分ができる事から始めてみる。少なくとも晋作は、だったら自分がこの世の中を面白くしてやろうじゃないか。という気概を持って生きていたと思います。さあこの瞬間が世の中を変える第一歩です。

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和を以って尊しとなす

「和を以って尊しと為す。忤ふること無きを宗と為す。人皆党あり、また達れる人少なし。ここを以ってあるいは君・父に順はず、また隣里に違へり。然れども上和らぎ下睦びて、事を論ふに諧ふときは、すなはち事理おのづからに通ふ、何の事か成らざらん」聖徳太子

聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説あり-『日本書紀』))は、飛鳥時代の皇族とされる人物。

本名は厩戸(うまやど)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある。ただし、生誕地の近辺に厩戸(うまやと)という地名があり、そこから名付けられたという説が有力である。

日本人は“和”を大切に生きる民族です。それは、奥ゆかしく、慎ましやかに生きていれば、他人と争う事なく、お互い気持ちよく暮らしていける。という日本人の根底に流れる一種の美徳とも言えるものです。

ですが、ここで言う“和”は少し趣が違います。人はそれぞれに思想があり、育った環境も違います。自ずとその意見や価値観、常識も違って当然です。さりとて、自分を押し殺して他人と迎合することは、“和”とは言いません。

一人一人の違いを否定し排除するのではなく認め合う。また、安易にお互いを分かったような気にならない。つまり、まず“自己”を確立した上で、“他者”と程よい距離で関係を築いていく事こそが“和”の本当の意義だと思います。

人は皆弱く、寂しい部分をもっています。また、一時的に精神的に弱ってしまう時があります。でも、そんな時こそ“自己”をしっかりと持つ事が大事です。他人に寄りかかる事は一時凌ぎにはなっても、本質的な孤独からは逃れられません。

ですが、その苦しい時を乗り越えたなら、貴方は初めて自分が孤独ではない事に気付くはずです。それが“和”です。

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一度だけのチャンス

「人生は一冊の書物に似ている、愚者たちはそれをペラペラとめくっていくが、賢者は丹念にそれを読む。」(角笛と横笛)より ジャン・パウル

 ジャン・パウル(Jean Paul, 1763年3月21日 - 1825年11月14日)はドイツの小説家。本名、ヨハン・パウル・フリードリヒ・リヒター(Johann Paul Friedrich Richter)。著作に「巨人(Titan)」や「生意気盛り(Flegeljahre)」などがある。

人間の一生はあっという間に過ぎていきます。若い頃はそれを意識せずに、無為に時間を浪費してしまいますが、年齢を重ね残り時間の少ない事を知ると、生ある事の有難さに気付き、残された時間を大切に過ごすようになります。

ですが、この事をもっと若い頃に気付いていれば、エネルギーや気力に溢れたその時間をとても有意義に過ごす事ができるのです。人間には必ず死が訪れます。そのごく当たり前の事を意識して生きるか否か。

貴方には前者であって欲しいと思います。そして、今しかないその時間を燃焼しつくして欲しいと思います。ですが、決して生き急ぐわけではなく、その濃密なる時間をじっくり味わって欲しいのです。それが賢者らしい生き方だと思います。

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失敗の効用

「諸君は失敗する。ずいぶん失敗する、成功があるかもしれませぬけども、成功より失敗が多い。失敗に落胆なさるな。失敗に打ち勝たねばならぬ。たびたび失敗すると、そこで大切な経験を得る。この経験によって、もって成功を期さなければならぬのである。」大隈重信

大隈重信(天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士・佐賀藩士、政治家、教育者。第8代、第17代内閣総理大臣。 位階勲等は従一位大勲位。爵位は侯爵。東京専門学校(現早稲田大学)の創立者。

大隈は失敗を失敗で終わらせてはないらない、その失敗は成功へ到るまでのほんの道程であり、自分自身が諦めない限りは本当の意味で失敗しているのではない、と言っているのだと思います。

また、簡単に成功してしまっては、それが自分の成長に繋がらない。失敗を重ね、そこから様々な事を吸収した後の成功であれば、それは自分にとって生涯忘れ得ない大切な経験として根付くのだと言っているのでしょう。

若い人に特に多いのですが、失敗や恥をかくことをを恐れて、最初から挑戦しない人がいます。例えば恋愛においては、「フラレたら嫌だから告白しないでおこう」とか「相手の気持ちが分かるまでは、自分から好きだと言えない」とか。何故そんなに臆病になる必要があるんですか?長い人生からすればそれ程の一大事でもないのに・・・

失敗する事を恐れて、自分の気持ちに正直に生きられない事はすごく勿体ないことです。勿論わがままに生きるという事とは本質的に全く違いますから、誤解のないようにして頂きたいのですが、人に迷惑を掛ける程でなければ、どんどん自分の思うがままに行動すればいいのです。やらずに失敗もしなければ成功もしないのと、自分に正直にやって失敗するのとでは、絶対に後者の方が得るものは多い筈です。

余談ですが、職人が包丁を造る際に出る鉄屑は、転用や再利用ができないそうです。一本の完成品を造るのに、それ以上の鉄屑を造り出す過程は、人生に似ているのではありませんか?一見無駄にも思えるその鉄屑(失敗)は完成品(自分が成りたいと思う自分)を造る為に必要な材料(経験)なのです。人生には一つも無駄はありません。あるとすればそれは怠慢からくる感受性の欠如です。失敗からも学ぼうとする貪欲さは、いずれ成功を手繰り寄せます。

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困難に立ち向かう

 「問題は解決されるために提出される」レーニン

ウラジーミル・イリイチ・レーニン(ロシア:1870年4月22日 - 1924年1月21日)は、社会主義革命(ロシア革命)を最初に成功させたロシアの政治家、ソビエト連邦の建国者。ロシアの共産主義政党であるロシア社会民主労働党・ボリシェヴィキの指導者。

この考え方は、自己啓発の世界においてはごく一般的な考え方だと思います。かくいう僕も常に自分にそう言い聞かせています。ただ、仕事上ではこう思えても、それを超えた所での困難に直面した場合において、それを実践できるかと言えば、事はそう簡単には行きません。

僕は人生に向き合うに際して常々こう思っています。
即ち「人生とはボードゲームの様なものである」と。
つまり、回したルーレットの出目によって、ラッキーなイベントが起こったり、反対にアンラッキーなイベントが起こったりします。日常生活でボードゲーム程の劇的なイベントがそうそう起こるものではありませんが、とにかく生きてれば色々あります。

それを想念の上で、自分という存在を、もう一段階上から客観的に見ている、より高位な自分をイメージする。そして、日常生活において、困難に遭遇した場合には、「今は悪いイベントのマス目に止まったんだな」と考えるわけです。でも次のルーレットでは、また良いイベントのマス目に止まるかもしれない。いつまでもそこに留まってるわけじゃないですから、必ず出口がやってきます。

そう考えると、困難に直面した場合にでも、少しはそれを楽しむ余裕が出てくるのではないでしょうか?この思考法は僕のオリジナルですがぜひともお勧めです。それで、貴方の心が少しでも軽くなれば嬉しく思います。

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かけがえのないもの

「この世で私に与えられた仕事は、極めて限られたものかも知れない。だが、それは私に与えられた仕事であるという事実ゆえに、かけがえのないものである。」マザー・テレサ

マザー・テレサ(Mother Teresa, 本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ(「花のつぼみ」の意)、1910年8月27日 - 1997年9月5日)は、カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者。

「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は修道名である。コルカタ(カルカッタ)で始まったマザー・テレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。

人はそれぞれに与えられた役割というものがあります。それは、様々な経験を通して徐々に確立していくものです。中には生まれながらにして、その役割や地位にある人も存在しますが、大多数の人々には後天的に与えられるもので、もしかしたらそれが自分の役割なのだと信じ込んでいるのかも知れません。

世の中にある殆どの仕事に不必要なものなんてありません。企業であれ、人であれ世間から不必要とされたなら、退場を余儀なくされるでしょう。ですから、今貴方がそこに存在しているという事は、誰かが貴方を必要としているからなのです。

だから貴方は自信を持って、今与えられている役割を全うして下さい。貴方自身は気づかないかも知れませんが、そうする事で誰かが少しづつ扶けられているのだと思います。

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日本一の下足番

「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ。」 小林一三

小林 一三(こばやし いちぞう、日本の実業家。阪急電鉄・阪急百貨店・阪急阪神東宝グループの創業者。山梨県出身。慶應義塾卒。阪急ブレーブス、宝塚歌劇団の創始者としても知られる。)

「現状に対して不平不満をいう前に、今目の前にある事を一所懸命やれ!」というメッセージです。そうして、地道な仕事をコツコツと続けていく事が、自分が認められる為に、最短かつ唯一の方法であるという事でしょう。

だからといって、すぐには認めてくれない時もある。社長や直属の上司だって人間ですから、全てに目が行き届くわけではない。たまたま機嫌の悪い時だってある。それで、不貞腐れて頑張る事をやめてしまう位なら、元々認められるような人間にはなっていない。何故なら人は認められる為だけに仕事をするのではないからです。もちろん、人から認められる事が嬉しい事であるのは否定しません。

誰も認めてくれなくても、自分の成長の為に仕事したって全然間違いではありません。最初はそれでも十分だと思います。そうやって、目の前の事を一つづつこなしていく内、自分の成長が感じられて楽しくなってくる。そうなれば、自分の知らないうちに徐々に周りが認めてくれるようになります。

ただ、それを期待する下心を持って事に当たるというのは全然違います。そんな事すら忘れてしまう程に没頭した状態の時、人は「アイツは他人とは一味違うな」と少し認めてくれるのだと思います。そこまで到達すれば、社長や上司の評価に一喜一憂していたかつての自分は、もう居ないでしょう。

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この世に客に来たと思えば何の苦もなし

「この世に客に来たと思えば何の苦もなし」 伊達政宗

伊達 政宗(だて まさむね、1567年9月5日 - 1636年6月27日)は、戦国時代の武将。奥州(後の陸前国)の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、また、戦国屈指の教養人として、豪華絢爛を好むことで知られていた。

『この世に客にきたと思えば何の苦もなし、朝夕の食事もうまからずとも褒めて食うべし。元来客の身なれば好き嫌いは申されまじ。人間の欲というのは実に際限がない。そこからいらざる不平不満が頭をもたげ、ついには身の破滅につながる。この世に今あるものは客の身分と思えば有り難く感謝できる』

この世の中の殆どの不平不満が一気に吹き飛んでしまいそうな、これぞまさに“発想の転換”。我々一般人はここまで達観するのは難しいですが、日常の様々な事に感謝して生きる、というのならできると思います。

本来不平不満とは、自分でその状況が変わりそうもない、または変える力がない時に沸き起こる感情だと思いますが、もしそうであるならば、“変える”という選択肢をすっぱり切り捨てて、すべてを受け容れてしまう。

まさか他所のお宅へお邪魔して、インテリアが気に入らないからといって、勝手に触ったりしませんよね。時間が来れば自分はまた自宅へ帰ってしまう。ですから、そこに居る間はそれを受け容れるしかない訳です。伊達政宗の発想もまさにそのような事だと思います。

こう思えたら、飲み屋でクダを巻いてるおじさんも減るんでしょうね・・・

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